ナザレで受け入れられない(マルコ6章)
聖書箇所は、マルコの福音書6章1節~6節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書13章53節から58節、ルカの福音書4章16節から30節です。
マルコの福音書6
●1節.イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
●2節.安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
イエスは故郷ナザレに帰り人びとに教えを述べられました。
マルコの福音書第6章2節には、イエスの会堂での教えに「・・人々はそれを聞いて驚いて言った・・・」、とあります。
イエスが故郷のナザレの会堂で教えられたが、郷里の人々はおおいに驚きました。
郷里の人たちは幼少期からおそらく公生涯に入られる30歳ころまでを共に過ごした人々です。
小さいころから共に育ったイエスが、それも大工の息子が、いまはラビ、いやそれ以上の存在として会堂で教えているのです。
その余りの変わりように驚いたのでしょう。
もちろん、その知恵と知識においても、聴衆は自分たちが知っているイエスとの落差に驚いたことでしょう。
それでは、どの時点からイエスが変わられたのかを聖書から推測してみますと、それはおそらくヨルダン河で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、 聖霊が鳩のようにイエスに降った時からではないでしょうか。
イエスは、父なる神から聖霊を受けその時に改めてご自分をメシアとして自覚されたのだと思うからです。
聴衆は、自分たちと同じ人間としてのイエスはよく理解できましたが、聖霊に包まれて語られるイエスの態度、神の霊の働きによる知恵、力ある業(なされる奇跡)は、とてもではないがにわかに理解できなかったことでしょう。
それもいたしかたないことだと思います。
わたしたちでも、隣の家の息子である幼馴染が突然イエスのような人物になったといっても、にわかには信じられません。
親しい人物ほど変貌したその姿を受け入れるのはむつかしいと思います。
2節で聴衆は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」といっています。
イエスの郷里の人たちが、聖書学者のようにではなく聖霊に満たされて、権威ある者として聖書を説かれるイエスに驚いて、このような権威と知恵をどこから得たのかと不信に思ったのは、おそらく、イエスが「ラビ」(ユダヤ教の律法学者)としての正式の律法教育を受けていないのに聖書[旧約]のことをよく知っていたからではないでしょうか。
彼らはそれがイエスの中に働く神の御霊、聖霊の知恵の働きから来るものであることを、理解することができなかったでしょう。
●3節.この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
イエスの子供自分をよく知っている郷里の人々が「この人は、大工ではないか。マリアの息子でヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」、と言っているのは、イエスは故郷の人にとっては、あくまでも三十年を共に生活をしてきたイエスという人間、大工の息子だという先入観念にとらわれていたからでしょう。
ただ不思議なのは、郷里の人々はここでイエスを「マリアの息子」と呼んでいることです。
当時は必ず父親の名で息子の家系を示したと言うことですから、母親マリアの名で息子を呼んでいるのはどうしてでしょうか。
父親が亡くなっていたとしても、当時は一般的に父親の名で家系を示していたそうですからそれもおかしいと思います。
はっきり言えることは、イエスはヨセフとマリアの夫婦の子ではなく、マリアの子であると誰もが思っていたと言うことです。
人々は、イエスを母親だけの子、すなわち私生児に対する軽蔑をこめて呼んでいたのではとある解説書には書いてありました。
そこのところを、簡単にまとめてみますと、「そうだとすると、イエスの誕生にはなんらかの秘密があって、普通の夫婦からの普通の誕生ではなかったことが周囲の人たちに知られていたことになります。
この秘密はマリアとヨセフだけが知っていることですが、いくら説明しても世間に理解してもらえるような性質のものではなかったので、夫婦とくにマリアは世間の蔑視に耐え、この秘密を胸の内に秘めてイエスを育てたと思います。
そしてマリアが、イエスが十字架にかかり三日後に復活された事態に出会い、イエスの誕生時の不思議な出来事を思い出し、そのことをごく内輪の信徒に漏らし、それが基となって、マタイの福音書やルカの福音書のはじめに置かれている誕生物語が形成されていったと推測される」ということです。
そこのところを、マタイの福音書1章18節には、「母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」同19節、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」。
ルカの福音書はヨセフがマリアを受け容れた後のことで、4節「ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行った。」5節「身ごもっていた、許嫁のマリアと一緒に登録(ローマ皇帝の勅令による自分の町での住民登録。)する為である。」となっています。
他の福音書のように重複箇所はなく、また、マタイの福音書とルカの福音書で内容が全く違いますが、これは伝承過程が違たからでしょう。
イエスが復活された後、復活したイエスに出会い、マリアはイエス誕生時に起こった不思議な出来事を回りの人に語り始め、それがマタイとルカの所属する二つの共同体でそれぞれ独自に伝承として残り、誕生物語となりマタイの福音書とルカの福音書に記載されたのだと思います。
最も早く著わされたマルコの福音書に誕生物語がないのは、まだキリスト共同体がユダヤ教から完全に独立(ユダヤ戦争の紀元70年ころ)していなかったからではないでしょうか。
私生児といううわさがあったということから考えても、イエスの誕生次第は隠すべきことで、大ぴらにはできなかったマリアの気持ちはよくわかります。
ユダヤ教社会では、特にそういうことには人の目は厳しかったことでしょう。
イエスの誕生物語が、それも処女降誕が、マタイの福音書とルカの福音書にしかないのは、どのように理解すべきか迷っていたのですが、そのように考えれば納得できます。
わたしの知っている牧師さんは、作り話だと思っておられるようです。
真実はマリアのみ知るです。
しかし、よく考えると、イエスが名実ともに神の子として立てられたのは十字架で死に、復活されてからです(ローマの信徒への手紙第1章4節)。
そこからキリスト教が始まっているのです。
だから、イエスが神の子であることは、イエスの誕生の仕方で証明される必要はないと思います。
ということは、この記事はあまり重要ではなかったともいえます。
だから、マルコの福音書やヨハネの福音書やパウロ書簡も、イエスの福音を語るのに誕生の次第について何も触れていなくても不思議ではないと思います。
マリアの個人的な体験よりも大勢の人が体験した復活の方が大切だったのでしょう。個人的な体験は、その人の主観ですから、疑えば疑えるでしょうが、復活は大勢の人が客観的に体験していますから疑いようがないと言うことです。
証拠としてはこれ以上のものは有りません。
ただし、この処女降誕を疑った記事は、福音書にもないし、むしろ、当時の人々はそのことを当然のことと信じていたように見受けられるのです。
同3節で、「ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」、とイエスの兄弟姉妹の名前が書いてあります。ここから、イエスには四人の兄弟があったことが分かります。
これらの兄弟はイエスより後に生まれているのですから、弟ということになります。
ヤコブは後に、復活されたイエスの顕現を体験して、エルサレムの初代教団で重要な役割を果たしヤコブの手紙を書いています。
ヤコブも最初はイエスを信じられないで、気が違ったのかもと思って家に連れ帰ろうとしましたが、復活のイエスに出会い信仰を受け容れた一人です。
ユダも同じく信者になり、「ユダの手紙」を書いています。
すくなくとも、イエスが地上で宣教活動をしておられた時には、兄弟たちはイエスを理解することはできないで、非協力的でむしろイエスの気が狂ったと思って恥ずかしく思い連れ戻そうとしたりしています(マルコの福音書第3章21節31節)。
同3節で「このように人々はイエスにつまずいた」、とありますが、イエスの家族や生い立ちや職業をよく知っている郷里の人たちは、その先入観念に囚われて、現在のイエスの中で働かれている聖霊の現実、神の国の福音を信じることができなかったのです。
かえって自分たちと同じ仲間の一人がそのような主張をすることに驚き呆れ憤慨したことでしょう。
●4節.イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われて、イエスは故郷の人々が不信仰なのは、イエスの過去に囚われて、表面のイエスしか見ようとしないからだと思われます。
これなど、わたしたちに置き換えてもよくわかる話です。
人間とは、先入観念をもつと、それに囚われてその流れでしか物事が見えなくなるものです。
なお、初代教団ではたしかイエスを預言者以上の方、神の子としていたと思います。ここでは、民衆も弟子も、そして批判者であるユダヤ教ファリサイ派の人たちも、イエスのことを預言者と言っています。
イエス自身も、みずからを、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはない」(ルカの福音書第13章33節)といわれ否定されていません。
預言者とは、神のみ言葉を預かった者。そして、その預かった神の言葉を大衆に語り伝える。その言葉を受け容れた者は、神に出会うことが出来る。このように預言者は神に選ばれた人ですが、自身普通の人間です。
わたしはこう言う矛盾したところに聖書の真実性を見るのです。
それは、聖書が作り話なら、この「預言者」と言う言葉を「神の子」と書いてもよいと思うのです。
聖書はイエスを神の子と主張しているのですからそうでないとおかしいでしょう。
聖書は自分に都合の悪いことをそのまま書いているので正直だと思うのです。
●5節.そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
信仰のないところには奇跡は行われないのです。わたしたちが奇跡を体験できないのは、知性や経験、目に見えるものだけを見て生きるわたしたちの不信仰が原因だと言えます。
●6節.そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
イエスは、故郷であるナザレの人々に福音を受け容れてもらえなかったので、ナザレから去り近くの村々で教えられました。もう二度と故郷に帰られることはありませんでした。
« 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(2)(マルコ5章) | トップページ | ゲネサレトで病人をいやす(マルコ6章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
« 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(2)(マルコ5章) | トップページ | ゲネサレトで病人をいやす(マルコ6章) »
コメント