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2018年2月11日 (日)

悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(1)(マルコ5章)

聖書箇所は、マルコの福音書第5章1から20節ですが、長いので二回に分けて読みます。
一回目は12節までです。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第8章28から34節/ルカの福音書第8章26から39節です。

マルコの福音書第5章
●1節.「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

一行とはイエスとその弟子たちのことでしょう。

イエスが向こう岸に渡られた動機や目的は何も書いていません。

その途中、つまり、湖上で嵐に遭遇し舟が転覆しそうになりますが、イエスのひと言、「黙れ。 静まれ。」で嵐は静まり一行は無事に対岸であるガリラヤ湖の東側にあるガラサ人の地に到着しました。

●2節「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場からやって来た」

汚れた霊につかれた人が、イエスに近づいてきました。

汚れた霊と言うことですから、悪魔でも悪霊でもないと思います。

なぜなら、悪魔は天使長が自分も神のように崇められたいと思い神に反逆して変質したもので、悪霊はその悪魔となった天使長に付いて行った配下の天使と書かれているからです(黙示録12章4節)。

そして、聖書には悪魔も天使(悪霊)も人の身体に入る(憑依)ような記載はありません。外から人に影響を与えているだけです。

したがって、この節の人の体につく「汚れた霊」とは、おそらく、死んだ人間の霊だと思います。広い意味での悪霊かもしれませんが。

●3節.「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。」

汚れた霊に憑かれた人は、墓場に住んでいました。

当時の墓は、洞窟などが使われていたそうですから、そうした所に住んでいたのでしょう。

●4節.「これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。」

墓場を住まいとしていた汚れた霊に憑かれた人は、鎖や足枷で移動できないように拘束されていましたが、その力は強く、鎖は引きちぎり、足枷は砕いてしまうほどでした。

、すごい力ですね、「汚れた霊」のついた人間は並はずれた力を出せるのでしょうか。

汚れた霊に憑かれた人はゲラサ人なのですが、このゲラサ人に乗り移った汚れた霊は複数(9節)ですから力が強く、病は重症であったということでしょう。

汚れた霊どもを追い出すにも軽度のものと重度のものとで違いがあるのでしょう。次のイエスの言葉がそのことを表しています。

は悪霊追い出しについて、弟子たちが追い出せなかった悪霊をイエスが追い出されたとき、「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」(マタイの福音書17章21節)と言われています。

●5節.「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」

多くの汚れた霊どもがゲラサ人にその様なしぐさをさせていると思いますので、ゲラサ人は自分で自分のことがどうにもならない状態ですから、彼はさぞ苦しんでいたことでしょう。

といっても、汚れた霊は同じような性質の人間に好んで取りつくと言いますから、一概にそうとも言えないかもしれません。

●6節.「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、」

ゲラサ人に乗り移った汚れた霊どもがイエスに駆け寄ってきてイエスにひれ伏しています。

汚れた霊どもは、人間には自由に従わせていますが、イエスに対しては足元に服従しています。

「走り寄ってひれ伏し」ですから、イエスはまだご自分が何者かも言われていないのに汚れた霊どもはイエスのことを知っているようです。

汚れた霊どももイエスと同じ霊界の存在だからでしょう。

これによって、イエスは、わたしたちが住むこの世界だけでなく、霊界をも支配されていることがわかります。

●7節.「大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」」

汚れた霊どもはイエスを見て「いと高き神の子」と呼んでいます。

彼らも霊界の存在なので、同じ霊界の存在としてイエスの正体を知っているのです。

そして、この汚れた霊どもは「後生だから、苦しめないでほしい。」といって、自分を苦しめないようにイエスに懇願しています。

なぜでしょうか。その答えは8節です。

鎖をも引きちぎった汚れた霊どもは、イエスの御前では足元に服従しているのです。

イエスは、舟を転覆させるほどの大きな嵐を服従させましたが、この恐ろしい汚れた霊どもをさえ服従させておられます。

自然界だけでなく、霊界をも支配されているのです。

もちろん、背後には父なる神が共におられます。

●8節.「イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。」

汚れた霊どもは人間に乗り移っていました。

その人間の体から出て行けと言われて「苦しめないでくれ」と願ったのです。

ということは、汚れた霊どもも体を持つことを望んでいるのです。

体を無くすことは苦しみなのです。

だから、霊体だけでは苦しみがともなうのです。

それは、汚れた霊どもはもともと人間の霊だからということでしょうか。それ以上のことはわかりません。

また、ルカの福音書では、「底知れぬ所に行け、とお命じになりませんように(8章31節)」と汚れた霊が言っていますので、底知れぬ所はどのような所か知りませんが、キリストが再び来られるときには、悪魔がその底知れぬ所に鎖につながれます(黙示録20章3節)。

●9節.「そこで、イエスが「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。」

イエスはこの汚れた霊どもの名を聞きました。

その答えが、「名はレギオン。大勢だから」です。やはりこの汚れた霊は大勢で一人ではなかったのです。

レギオンというのは、軍団を表す言葉で、ローマ軍団6000人の兵隊の呼び名に使われていたと言うことです。

したがって、この汚れた霊どもは、汚れた霊どもの集団であって、その集団が一団となってゲラサ人に憑依していたと言うことでしょうか。

だから、ゲラサ人は力が強く、鎖を引きちぎるとか、足かせを打ち砕くような怪力を持っていたようです。

●10節.「そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。」

汚れた霊どもは、このゲラサ人の住む地方から自分たちを追い出さないようにイエスに願っています。この地方が気に入っていたようです。

●11節.「ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。」

●12節.「汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。」

「豚」は、律法によると汚れた動物とされています(レビ記11章7節)。

現在でも豚の肉は寄生虫があるからよく焼いて食べなさいと言われています。

神は、イスラエルの民を聖別し聖なる民として育てようとされていましたから、衛生上の問題で豚などを汚れたものとして食べてはならないとされたのでしょう。

でも、ここでは豚が飼われています。当局の目を盗んで飼っていたのでしょうか。

律法で禁止されていても、ユダヤ教の律法学者らの目の届かないところで食べる人がいたのでしょう。需要があるから供給があるのです。

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