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2018年2月27日 (火)

ベトサイダで盲人をいやす(マルコ8章)

聖書箇所は、マルコの福音書第8章22から26節です。

共観福音書の並行個所はありません。

●22節.一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

終わりの日におこるべきしるしは、旧約聖書イザヤ書第35章5節6節によると、「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」と預言されていました。

マルコは旧約聖書の終わりの日に起こるべき預言の成就の一つの出来事としてこの「盲人をいやす」奇跡を書いたのだと思います。

マタイの福音書は、明確に第11章5節でそのように伝えています。

そして、イエスがイザヤ書で預言された、来るべき方であると言っています。

マタイはイスラエル人を対象に福音書を書いていますので、イエスの出現が旧約聖書の預言の成就であることを明確にしたかったのでしょう。

旧約聖書には、イエスという名はどこにも書かれていませんが、預言された出来事が、実際にイエスの身に起こった出来事と不思議に一致するのです。

マルコの福音書はマタイの福音書のように明確に預言の成就とは書いていませんが、起こるべき奇跡を一つ一つ取り上げてそのこと(旧約聖書の預言の成就、つまり、メシア到来のしるし)を明らかにしています。

●23節.イエスは盲人の手を取って村の外に連れ出し、その目に唾をつけ両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。

イエスは癒しの言葉を発せられないで、「何か見えるか」と言われました。

おそらく、イエスは暗黙の内に「見なさい」と言われたのでしょう。

盲人は何が見えるかと言われて、見えるかもしれないと期待する心と行動が引き出されて、ある意味信仰をもったのだと思います。

盲人は長い間見えないことがあたりまえの人生を歩んできたのです。

見えるようになりたいという期待もさぞ強いものであったでしょう。

「その目に唾をつけ、両手をその人の上において」というのはよくわかりません。

それで早速解説書を見てみますと、この形式は、当時の医療行為に広く見られた形であり、初代の教団も「油を塗り、手を置いて」多くの病人を癒したということです。

ですからこの行為は、イエスが自分の内にある力を相手に注ぎ入れるための行為と言えます。

●24節.すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

●25節.そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

イエスの最初の治療行為では「歩いているのが分かります。」程度の見え方でしたが、25節の再度のイエスの治療行為で、「何でもはっきり見えるようになった。 」となっています。

一度に癒されたのではなく、だんだんと見えるようになってきたと報告されているのです。

神の力による癒しにも様々な形があるのですね。しかし、描写は微細で信ぴょう性があります。

●26節.イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ここはどういう意味でしょうか。

つまり、イエスは意図的に群衆にこの奇蹟を見せないようにされたのでしょうか。

奇跡を隠されたということは、やはり、前にも書きましたが、今はまだイエスの時、つまり、十字架の時が来ていないということでしょう。

なぜなら、この事は単なる言葉や議論の事柄ではなくしるしだけだから、噂が広められるとユダヤ教指導者の監視が厳しくなり、その時までになさねばならないことができなくなりますからね。

その時、つまり十字架の時はまだ早い。それまでに弟子たちに教えておかねばならないことが沢山ある、ということでしょう。

これを境にしてイエスの伝道は、ご自分の死と復活の予告へと移ります。

つまり、ガリラヤからエルサレムを目指す旅が始まるということです。

それでは、この個所で学ぶべきことは何かを考えて見たいと思います。

それは、病気の癒しだけでなく、信仰の目が開かれるというのはどういうことかということだと思うのです。

盲人は、当然目が見えないから誰かにつれてこられたのは明らかです。

そして、イエスのみを見つめています。

その場所が、大勢の集会であろうと数人の集まりであろうと同じだと思います。何人そばにおろうが、信仰の目はイエスと盲人と二人きりの世界の人格的交わりだと思うからです。

傍のものはその助けをするだけですね。

信仰はあくまでもわたし個人とイエスの人格的な交わりの関係だということでしょう。

パウロがダマスコへ行く途中でのイエスとの出会い(使徒言行録9章)ほど劇的でなくても、クリスチャンのほとんどの人は何らかの霊的体験をして、霊の目が開かれてイエスの言葉に真理を見つけたと思うのです。

でもね、イエスの言葉を読んだからといって素直に信じることができるというものではないと思うのです。

人によっては、何らかの霊的覚醒を受けてそれだけで信じてしまう人もおられますが、そういう盲目的な信じ方はわたしにはとてもできそうにありませんが、何らかの霊的体験が信仰を促すことはよくあることです。

だから、この個所の盲人もそこに来るまでに、イエスが病気の人をいやしているうわさは聞いて知っていたと思います。

この人ならば自分の見えない目も見えるようにしてくださる。そういう確信があったと思うのです。

信仰は、先ず何よりも、イエスの言葉を読んだり聞いたりすることから始まります。

聞く人は、知的な人、いわゆるインテリの人たちもおられるけれどもそうでない人もおられる。

どのような人にも啓示が与えられると思うのですが、イエスの言葉を頭で理解するのではなく、霊感でイエスの言葉の真理を悟ることが大切だと思うのです。

わたしの場合は、聖書を読んでいて、そうですね、聖霊の働きだと思うのですが、躍動感を伴った不思議な感情に襲われて、そのイエスの言葉が語る真理がわかったと思ったのです。

だから、そこに何かがあるのではと思いつかまって二十二年です。

信仰に、確かな確信を得られなくても生涯その確信を求め続けている人もいる。信仰は、疑いの中ではぐくまれると言っておられる神学者の方もおられます。

本当に信仰をもつ方法は人によっていろいろです。

それでよいと思うのです。

でもね、わからないところがあればとことん追求するが、それでもわからなければ子供のように信じることも必要かと思います。

信仰の世界ですから、聖書を読んだからと言って、森羅万象すべてがわかるはずもないのです。

わからないから信仰が必要なのです。異次元の神の国のことです。すべてが分かるはずがないのは当たりまえです。

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