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2018年2月21日 (水)

昔の人の言い伝え(1)(マルコ7章)

聖書個所はマルコの福音書7章1節から23節です。

長いので(1)ではマルコの福音書第7章1から13節を読みます。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章1から20節 です。

マルコの福音書第7章
●1節.ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

「ファリサイ派の人々」とはモーセ律法を厳格に守ろうとするユダヤ教の一派の人々です。

その人たちは宗教熱心なので、民衆に評判の良い新しい教えを宣べ伝えているイエスに大きな関心を寄せていたことでしょう。

後でこの人たちとイエスは険悪な関係になるのですが、最初の内はイエスに対話を求めて食事に招いたりしていたのです(ルカの福音書第7章36節)。それもイエスが敵か味方かを探るためであったのでしょう。

しかし、彼らはできるだけ厳格にモーセ律法を守ることを拠り所、つまり、そのことで人々の尊敬を集めていましたので、イエスの新しい教えはモーセ律法を廃止するのではなく、成就するための教えなのにその真意が分からず、モーセ律法を無視する、モーセ律法に違反する教えとして批判的になり、ついに彼らは、イエスをモーセ律法遵守の象徴的な安息日律法を公然と破る者として、一部の者はイエスに殺意を抱くまでになりました(マルコの福音書第3章6節)。

しかし、「エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 」ということですから、ここでも彼らはモーセ律法に対するイエスの言動を監視するためにわざわざエルサレムから、つまり、ユダヤ教の本拠地からやってきたのです。

この時代、本物も偽者も含めて預言者はたくさん出てきたでしょう。

ユダヤ教本部から見れば、イエスもその中の一人であったのでしょうが、どうやらユダヤ教本部でもイエスはほってはおけない存在になっていたようです。

●2節.そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

ファリサイ派の人々に同行して数人の律法学者もエルサレムから来ていたのでしょう。

律法学者たちは律法の専門家です。辺境の地ガリラヤに起こったイエスの新しい運動が、モーセ律法に適ったものかどうかを確かめるために来たのでしょう。

もし、モーセ律法に違反していれば告発する役目もあったのでしょう。

彼らはイエスの行く先々に現われて、イエスの言動を厳しく監視していたのでしょう。

「洗わない手で食事をするもの」は明確なモーセ律法違反です。彼らは「イエスの弟子たちのうちに、汚れた手、すなわち洗わない手でパンを食べる者がいる」のを見つけました。

●3節.──ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

ここに書いてあるようにユダヤ人は皆、こと細かく定められたモーセ律法を厳格に守っていました。

ところで、モーセ律法の数はどれほどあるかを解説書で調べてみましたら、旧約聖書の「モーセ五書」の中に、248の命令と365の禁令、合計613の律法があるそうです。

律法もそれだけ数多くあれば、当然時代の変化に伴い具体的な律法の適用に問題が出てきて、管理する人も必要となります。

その役目を律法学者が負っていたのだと思います。

そして、おそらく個々のケースについて、専門の律法学者たちが研究し、議論し、到達した成果が、師から弟子へと相伝され蓄積され民衆に教えられ他のでしょう。

このように律法学者の間で口伝伝承されたモーセ律法の解釈とか具体的適用の細則は「ハラカ(歩み)」と呼ばれました。

もちろん、これは人間が時代の変化に合わせて造ったものです。

それは時代を経るに従い、そのハラカを含めた律法全体の体系は複雑で膨大なものになっていました。

そのハラカは後に(紀元後二百年頃)文書化されモーセ五書と同じ権威を持つものとされたそうです。

ここで「昔の人の言い伝え」と言われているのは、この「ハラカ」のことだと思います。

調べてみると、当時人々は、素手で食事をしていました。パンなどは汁などに浸して食べていたそうです。

肉とかパンは手でちぎって食べていましたので手が汚れますが、最後の一ちぎりのパンを残してそれで手を拭いていたということです。

だから、彼らにとって、手を洗わないことは、宗教的に、道徳的にけがれていたということになります。

イエスの弟子たちは、それを守らなかったのです。

●4節.また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。

ユダヤ人は、選ばれた聖なる神に属する民として、神が汚れたとされるものに触れてはならないとされています。
何が汚れたものであるか、また汚れを清めるにはどうするのかは、すでにモーセ五書の中に規定(レビ記11~15章など)があります。

律法学者たちはさらに細かく汚れたものに触れた場合や、触れたおそれのある場合などについて、汚れを清める方法を規定しました。

買い物をして市場から帰って来た時は、人ごみの中で、病人や異教徒など汚れたものに接触して体全体が汚れている可能性があるので、全身浴をして清めなければならなかったそうです。

それで、敬虔なユダヤ人は、清めの律法を徹底的に実行しようとしました。

●5節.そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

ファリサイ派の人たちはイエスに向かって詰問します。

食事の前に手を洗うかどうか、こんなささいなことが彼らには大問題だったのです。

イエスはこの問いかけに直接お答えにならず、その代わり、イザヤ書を引用してファリサイ派の人たちを弾劾されます。

イエスが彼らの質問に直接お答えにならなかったのは、食前に手を洗うかどうかよりも、詰問内容に根源的な問題があるからでしょう。

●6節.イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

●7節.人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』

●8節.あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

イエスは、モーセ五書はともかく、ハラカを神から受けたものではなく単なる人間の言い伝えだとして拒否されます。

預言者イザヤの言葉(イザヤ書29章13節)にあるように、彼らが人間の言い伝えを守り、神の戒めを捨てているとします。

●9節.更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。

彼らは、神の律法を人間の言い伝えを付け加えてないがしろにしていました。イエスは10節でその例を語ります。

●10節.モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。

イエスは続けられます。モーセの律法から、具体例として父や母を扶養する義務を取り上げて話されます。

当時は、今のように福祉制度も何もありませんから、子どもが年をとった親を世話しなかったら、親は野垂れ死にするしかありませんでした。

だから、こういう厳しい律法があるのでしょう。

「ののしる」というのは「敬う」の反対を指す言葉です。

親への愛の実践を求めていたのでしょう。

●11節.それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、

●12節.その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。

本来親のために使うべきものを神への供え物と言って誓願すれば、神への誓願が人間の義務、つまり、親を扶養する義務に優先し、親は息子の資産を利用することは許されないとされていました。

簡単にいえば、自分のものを親のために使いたくないから、形だけそれを神にささげましたと言えばその自分の財産を親の扶養に使わなくてもよくなるということでしょう。

もちろん、その告白は形だけですから、その息子の財産は実際に神殿にささげられるわけではありません。都合のよい解釈です。

そのようにして歪められた言い伝え、つまりハラカを守ることによって、結果的に神の戒め(親の扶養義務)を破っていることになる。

イエスは、このようにハラカは自分に都合よく人間がつくった規則なのに、それを守ることに固執するあまり神の言葉、モーセ律法を無効にしてしまっているという現実があることを実例として示されたのでしょう。

●13節.こうしてあなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

イエスは親の扶養義務放棄の実例を挙げ、これはほんの一例に過ぎないと言われます。

つまり、ハラカというような細則は、実生活上で自己の欲望を満たすことがモーセ律法を破ることになるときは、そういう規則を決めてモーセ律法を守っているという自負心を保とうとしたのでしょう。

そういうユダヤ教指導者をイエスは偽善者として厳しく叱責されました。

しかし、よく考えれば、その後のキリスト教の歴史も、同じような道を歩んでいたのではと思います。

でも、エクレシア、つまりキリスト者の共同体はまだ創造の過程にある未熟な段階です。

わたしは、そこにおける神の御霊、聖霊の働き、そうです、宇宙をお造りになり、今も造り続けておられる神の働きを信じています。

その様にして完成に導かれるエクレシアの福音伝道の働きが、やがて全人類の救いにつながり、そのみ業が完成する日が来ることを信じています。

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