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2018年2月 7日 (水)

「成長する種」のたとえ(マルコ4章)

聖書箇所は、マルコの福音書第4章26節~29節です。このたとえ話はマルコの福音書のみです。

●26節.また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、

●27節.夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。

●28節.土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

●29節.実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

種をまくと成長して木になります。もちろん、苗木を植えても水さえやっていれば大きくなります。

人間は水やりに世話をするだけですが、神がその木を成長させて下さるのです。

ここでは種の成長する様をたとえにして信仰の成長を語っているのだと思います。

マルコの福音書第4章14節によれば、種はみ言葉のことで、種が成長して実がなり収穫に至る過程(人間は水をやり世話をするだけで成長させるのは神です)と同じく、み言葉の成長は人間の理解や努力を超えたものであることが語られていると思います。

その背景には、み言葉は神の言葉ですから、言葉には発する者、神の意志が込められています。

み言葉の背景には、神の意志がエネルギーとなって神の言葉が成就すると言う思想があると思います。

イエスはその神の言葉が具現化した存在ですから、イエスが発せられる言葉は神の言葉と同じで、物ごとを成就させる力を持つのです。

人は種をまいても成長に適した環境を作るための世話をしながら、作物が自然に成長して実を結ぶのをひたすら待つだけです。

人は作物が成長する仕組みを理解しているわけではありません。

成長には適当な日照も必要ですが、それも神が備えて下さっています。

種はあらかじめ備えられたその種の設計図に従って、確実に成長し、時が来ればかならず実は実り、刈り入れができるようになります。

そこには、人間にはわからない自然の法則が働いているのだと思います。

約2000年前にイスラエルのガリラヤという一地方で始まった、イエスの言葉による神の国伝道は、一粒のからし種のように、最初は世界から見ると小さなものでした。

しかし、そのイエスの言葉の中に神の驚異的な力が秘められていました。

み言葉の種まきはイエスがこの地上の来られた時から始まっています。

時が来れば神は審判という鎌を入れて、神の民を栄光の中に導きます。

イエスが地上におられるときに、イエスの内に隠された形ではありますが、神の業はすでに始まっていました。

イエスが死に、復活し、聖霊が弟子たちに降ることによってイスラエルの民に限られていた神の国運動は異邦人(イスラエルの民以外)にも広がり、いまや世界人口の三分の一以上がイエスを信じる者となりました。

その仕組みを理解したり、その過程を人間の工夫や努力で変えたり促進したりすることはできません。

神は審判までのスケジュールは決められていますが、種を蒔くのは、イエスであり聖霊であり人間であります。
聖書はそのために大きな役目を果たしています。

種をまかなければ木も大きくならないし実もなりません。

神は人間に神の言葉と言う種を蒔くために、伝道という努力を求めておられます。

伝道する者は、イエスのみ言葉を伝えるのが仕事、伝えられた人がそのみ言葉を信じ、その人の中で大きな木に成長するかどうかは神の御手にゆだねられます。

そうです、蒔かれた種は人間が世話をするだけで、神の手によって大きく成長するのと同じように、信仰を成長させるのは神がなさることなのです。

教会というところは、信仰を持つまではいろいろと世話を焼きますが、信仰告白をして洗礼を受けると冷たくなるとよく言われます。

教会活動においても、何事も強制はされず、その人の自由意思にゆだねられます。

それは当たり前で、その後は神の霊、聖霊がその人に内住し、その人を成長させて下さるからです。人間の入る隙はありません。

それは、聖書を読み、み言葉を聞き(ここまでは人間の努力です)、イエスの言葉を信じ受け入れ、日常生活をみ言葉と共に歩んでいると、その人の気がつかないうちにみ言葉がその人をいつの間にかキリストの似姿に変えてくださると言うことだと思います。

そして、最後の審判の時にイエスが再び来られますが、その時にイエスは、そうしてみ言葉により結ばれた実、つまり、信者の群れとそうでない群れを分別されるのです。

もちろん、キリストを信じたと本人が言っていても、その人にみ言葉の実がなっていない時は、わたしはあなたを知らないとイエスに宣告されると思います。

イエスを信じると言うことは、いや、イエスを信じるようにしてくださったのは、信じた者が成長して実を結んで、審判の日までその実が残るためであったと言うことだと思います。

だから、先にも書きましたが、実を結ばない木は、切り取られてしまうのです。マタイの福音書第3章10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」の通りです。

ここのたとえのポイントは、一つは、神の国はイエスがこの世に来られた時にこの世に告知されました。

そして、神の言葉により広められました。あとは確実に成長していくと言うことだと思います。

ただし、そのためには働き手である神の御霊、聖霊の降臨を待たなければなりません(使徒言行録2章)。

イエスが死に、復活し、聖霊が降るまでは、神の国(神の支配)が到来した現実が、弟子たちや周囲の人々には理解されませんでした。

目に見える人間イエスに目を奪われてイエスの内に到来している神の国(神の支配)の現実を悟ることができなかったのだと思います。

聖霊を復活の御霊とも言います。その復活の御霊が、イエスを信じる一人一人にも与えられることによって、生前にイエスが語られたこととかイエスの身に起こった十字架などの出来事の意味を悟ることができたのだと思います。

イエスの復活は、この世の力に勝利した証しです。

ヨハネの福音書第16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とある通りです。

イエスの言葉を信じることによって、様々な困難や迫害にあい、挫折しそうになりますが、神の御言葉が既にその人の内に蒔かれているのです。だから神の言葉は必ずその人のうちで成長し実がなるのです。

その種から芽がでて育つ神の国は絶対に枯れません。たとえ天地が過ぎゆこうとも、神の言葉は過ぎ去ることがないのです。

もう一つは、神の国の成長は密かに、いつの間にか育ち大きくなるのです。

日本にはクリスチャンは少ないが、神のみ言葉は日本の文化の中にすでにあまねくまかれていると思うのです。
その種は今は誰も気がつかないが少しずつ成長していると思うのです。

それこそ神の時が来れば蒔かれた種が一気に芽を出し、大きく育つのだと思うのです。

神の国はそのように突然来るのではなく、徐々に確実に成長すると言うことだと思うのです。

でもね、世の終わりの裁きのときは突然やってくるのです。何時かは分かりませんが、必ずやってくるのです。

テサロニケの信徒への手紙一第5章2節「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」の通りです。

そのためにも、この世の荷物というかしがらみを余り抱えずに身軽でありたいものです。

人類に歴史があるように、人類を含む宇宙にも神の歴史があるのです。

約2000年前にイエスが始めた神の国運動は、この地上ですでに始まっています。

そして、この神の国運動はいつか必ず完成します。

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