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2018年2月 5日 (月)

「種を蒔く人」のたとえの説明(マルコ4章)

聖書箇所は、マルコの福音書第4章13節~20節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第8章11節~15節、マタイの福音書第13章18~23節です。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

マルコの福音書第4章
●13節.また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

ここが指しているたとえと言うのは、マルコの福音書第4章1節~9節にある「種を蒔く人」のたとえのことでしょう。
イエスが言おうとすることは、このたとえの真理を理解すれば、他のたとえの理解ができる、ということだと思います。

●14節.種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

●15節.道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

●16節.石だらけの所に、では、蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、

●17節.自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

●18節.また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、

●19節.この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

イエスは「種まきのたとえ」を三つ話されました。

その中で、「種」とは神の言葉を指すことは異論がないと思います。

そしてここでは、種が落ちた場所として、道端、石地、茨の中、良い土地という四種類の土地が用いられていますが、その四種類の土地は御言葉(神の言葉)を聞いた人の心の状態といいますか、聞き方、姿勢を表していると思います。

したがって、この種まきのたとえは神の言葉を聞いた人が正しい態度、柔軟な素直な態度で御言葉(神の言葉)を受け入れるようにということでしょう。

種である御言葉をわたしたちが聞いて、土地の種類にたとえられたわたしたちの心がその言葉をどのように受け入れるかが問われているのでしょう。

御言葉は聞いた者がその言葉を受け入れて初めて生きてくる。

つまり、聖霊がその人に内住して働くことができるということでしょう。

御霊は、み言葉を受け入れなければその人の中で働くことができないということでしょう。

道端は人が通り踏み固められていますから、頑なな心(キリストの福音、御言葉を聞いても、全く聞こうとしない人)を表わすと思います。

「サタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」のサタンはわたしたちの周りのサタンに支配されている一般世間のこと。

「石」は患難や迫害のことで、それは艱難や迫害が御言葉を受け入れるのを妨害するからでしょう。

「根がない」のは熟慮のない浅薄な心だとおもいます。簡単に御言葉を受け入れたふりをするが、何か妨害があれば、つまり、艱難や迫害があればすぐに心変わりがする。

それは見掛けだけで、心の奥底では受け入れていないと言えます。

「茨」はちょっと分かりにくかったので調べてみますと、この世の思い煩いや富の誘惑やさまざまな欲望のこととありました。

つまり、土地自体は固くなっていないので芽を出し、育ちはするが御言葉以外の他のもの(世間のこと)も生やしているので、それが邪魔して実を結んでいないということでしょう。

●20節.良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

ここの良い土地と豊かな実については、御言葉に対する正しい態度と、豊かな霊の恵みの中に生きる信仰生活を意味していると思います。

実とは、パウロによると、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤの信徒への手紙第5章22節~23節)」と説明されています。

「受入れる」というのは受け身のようにとれますが、説明書によるとギリシャ語では積極的な意味を持っていると言うことですから、仕方がないから受け入れるのではなくて、喉が渇いた人が水を求めるように自ら進んで積極的に受け入れることを指すと言うことです。

そう、永遠に渇くことのない聖霊と言う水を求めるようにです。

ヨハネの福音書第4章14節「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」の通りです。

み言葉を受け入れると言うことは、自分の人生や生活を豊かにすることを願って受け入れるのです。

それは当たり前のことですが、それは信仰(御言葉を信じることですから)を持つことですから、信じることは当然従うことを含みます。逆に言えば、み言葉に従わなければ信じているとは言えないということでしょう。

御言葉に従うことによって、罪が赦され、賜る聖霊の力によって、わたしたちを新しい人間に造り変えられるのです。同時に、わたしたちの必要を満たし、わたしたちの弱さを担ってくださるのっです。

御言葉を積極的に受け入れ聞き従おうとする素直で積極的な態度と、聖霊の働きが相乗効果を生みだして実を結ぶのです。

そして、その実が、三十倍、六十倍、百倍にまで結ばれるのです。

一人の人が受け入れた御言葉が、二倍や三倍でなく何十倍、何百倍にまで膨れ上がるということでしょう。

このようにして、クリスチャンはあらゆる迫害や妨害にめげずとどめもなく増えていくということでしょう。

今日の個所をよく読むと、わたしは洗礼を受けて、一応クリスチャンと自称していますが、はたして、わたしはどの土地に蒔かれた種なのでしょうか。

良い土地に蒔かれたのだろうか、自信がありません。

みなさんは如何ですか。このことについて、少し書いてみます。

わたしは信仰を持って二十二年になります。毎日のように聖書を読んでいます。わたしの聖書の読み方は、否定する為に読んでいるのではなく、真実であることを確認するために肯定的に読んでいます。

もちろん、聖書以外の本も読みますが、それも聖書が真実であることを確認するために読んでいます。

そうしてきて、聖書の内容は、否定するどころか、信じるに値すると思っています。これは最初から揺らいだことはありません。

この作業は生涯続けようと思います。

それだけの価値が十分あると思っています。聖書と言う書物は、知れば知るほど否定できなくなるのです。信じざるおえなくなるのです。これは、事実です。このことを、クリスチャンは、神につかまったと表現します。

キリスト教は、神をつかまえるのではなしに、神につかまるのですね。

よく考えると、クリスチャン一人ひとりが自分の信仰を探ってみてもあまり意味がないように思うのです。

人それぞれ置かれた立場が違うし、信仰の成長段階も違っていろいろです。

つまり、サタンが支配するその人の周りの世間も、石地も茨も決して一つの場合だけではなく、それは、無数にあると思うのです。

だから、自分の信仰を(他者の信仰も同じで)探るよりも、一番大事なことは御言葉を聞き、躓きながらも御言葉に従うことに務めることだと思うのです。

たとえ挫折して誘惑に負けても、茨に塞がれても、石地の心でも、サタンに襲われても、その結果実を結ぶことができなくても、ただ祈り続けること。

もちろん、祈り続けると言うことは、クリスチャンとしての自分の行く末を神に委ねることです。

わたしたち被造物はそれしかないと思うのです。

ただひたすら救いを、信仰を求めるしかないと思うのです。信仰は賜物とありますからね。

いったんみ言葉を受け入れれば、どんな失敗者でも、どんなに挫折しても、たとえどんな泥沼状態に陥っても、イエスはその人と共にいてくださるのです。

本当かなと思うけれど、そのように書いてあるのです。

御霊の実(ガラテヤ人への手紙第5章22節、23節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」)は、復活したイエスの臨在によって得られる不思議です。

信仰も、その結果である御霊の実も神の恵みによって得られるものだと思います。

わたし個人がじたばたしても何ともなるものではないと思うのです。

ただひたすら祈り求めるしかないと思うのです。

わたしなど、これで良いのだろうか、といつも自分に問いかけています。

わたしは聖書に出会えたおかげで、定年後の長い人生を豊かに過ごすことができて幸いです。

誰でもが読んでわからない仏教典ならばこのようにいかないでしょう。聖書ならば、誰が読んでも一応わかりますからね。

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