たとえを用いて話す理由(マルコ4章)
聖書箇所は、マルコの福音書第4章10節から13節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書13章10節から17節、ルカの福音書8章9節から10節です。
マルコの福音書第4章
●10節.「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。」
群衆は去り、後には十二人の弟子たちとその弟子たちの周りにいた一部の人たちだけが残りました。
日頃からイエスはたとえを用いて神の国のことを語られていました。
そこで、弟子たちはイエスにその理由を尋ねました。
前にも書きましたが、イエスがたとえで語るのは、その内容がこの世のことではなくわたしたちにとっては未知の世界である神の国のことだからです。
その世界は、人間の経験とか理性では判断できない世界ですから、たとえでしか説明の方法がなかったからだと思います。
それでも、神の国のことの全てを理解できるように説明することはできないので、必要なことだけを語られたのでしょう。
●11節.「そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが・・・」、とありますが、弟子たちには、たとえで話さなくても神の国の秘密がわかったということでしょうか。
聖書の流れから見ると、そうではなくて、ここはなぜたとえで話すかが分かったと言ことだと思うのです。
時の流れの中で生きている人間には未来のことは(時が満ちるまで)わかりません。
なお、イエスが十字架にかけられて天に昇られた後、弟子達は神の国のことを理解してイエスの言葉を述べ伝えましたが、それは、聖霊が弟子達に降られて理解させて下さったからと言えます。
「神の国の秘密」とは、以前は隠されていたが今は明らかにされている真理のことと言えます。
言い換えれば、それは人類救済の神の御計画。具体的にはイエスは何者であるか、つまり、イエスが語られたこと、イエスの身に起こった全てのことです。
イエスの神の言葉の受肉の秘儀、イエスが多くの苦しみを受け、十字架にかけられて殺され、三日目に復活されたことなどではないでしょう。
それらの出来事の意味は、イエスが十字架にかけられた後天に昇られますが、その後でイエスの御霊、聖霊が弟子たちに降ります(使徒言行録2章)。
そこで初めて弟子たちに生前のイエスの身に起こった出来事の意味の全てが明らかになるのです。
ということは、生前のイエスは聖霊に満たされて父なる神と言葉を共有されました。
そういう事態と同じ事態の中に弟子たちが生きることなくしてイエスが語られた言葉とかたとえの本当の意味が理解できないと言うことだと思います。
もちろん、イエスは聞く者が分かっていようがいまいが、必要なことを語り、力ある業(奇跡)をなし、苦しみを受けて、十字架にかかり、復活され45日後に天に昇られましたが、それは聖霊が弟子たちに降るのに備えてのことでした。
わたしたちは物ごとを人に伝える場合は、その都度理解されているかどうかを確かめながら伝えますが、イエスは違ったようです。
なお、福音書に書かれていることが事実であるということは、福音書はイエスの十字架から復活、聖霊降臨の出来事がすべて起こってから後に書かれていますから、福音書著者はイエスに教えをうけ、イエスの出来事と聖霊の働きを現実に自ら体験し、イエスの教えが事実であったことに確信を持って書いていると言うことです。
もちろん、生前のイエスを知っている人がまだ生存していますから、聖書の内容が、キリストの共同体で教えられていることが、嘘であるならばすぐわかったでしょう。
イエスは、新興宗教の教祖のように、一部の弟子の中でではなく、大勢の一般大衆の前で奇跡とかしるしをなされましたから隠しようがありません。
決して作り話とか推測で書かれているのではないのです。それが聖書の凄いところです。
●12節.「それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」
「彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず・・・」、この言葉は旧約聖書イザヤ(6章9節から10節)の預言と同じことを言っているのでしょう。
イスラエルの民はイエスの力ある業(奇跡)を繰り返し見ていながら、そこに神の力と憐みを認めないで、また、イエスの権威ある言葉を何回も聞きながら、そこに神の呼び掛けの声を聞いて悟ることもなく、この終わりの日の最後の機会に自分たちの主である神に立ち帰ることがないのです。
それは彼らがイエスを信じて従うことがなく、イエスが自分達の地位を脅かす存在としてしか見ていないので、イエスがなされる業も、イエスが語られる言葉も見ていても見えていないし、聞いていても聞こえないのです。
心の壁が邪魔をして、イエスの言葉の真意が分からないのです。
イエスの時代のそういう人達は、律法学者といわれてる旧約聖書の専門家です。
そのような、律法とは無縁の社会的に底辺層の人々が、つまり、イスラエルの中でイエスに従ったごく一部の「残りの者」だけが、神の国の奥義を授けられ、世界に対する神の恵みの業の担い手になりました。
こうして、先の者が後になり後の者が先になりました。
それら律法の専門家といわれる人々のことをイエスは、見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らないのかと言われ、それは、「悔い改めて赦されることがない」からだ、と言われています。
その人たちは、弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、目の前に到来している事態を悟ることができないのです。
真理を悟るには真理の御霊、聖霊の働きが必要です。
イエスの言葉を信じなければ聖霊は内住しませんから、まずイエスの言葉を信じなくてはどうしょうもないのです。
律法学者のように、いくら正しい教えを受けていても間違って信じていては、新しいイエスの教えを素直に受け入れることが、知識が邪魔して、言い換えれば、自分の立場が怪しくなるので、難しくなるので罪を悔い改める機会もなく、真理を悟ることができないと言うことでしょう。
●13節.「また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
「このたとえ」とは、先ほどの種蒔きのたとえ(「種をまく人」のたとえとして投稿済み)のことだと思います。
この「種をまく人」のたとえの意味もわからないのに、ほかのたとえの意味が分かるはずがない、逆に言えば、「種をまく人」のたとえの真理が分かれば、他のたとえも理解できる、ということだと思います。
この「種をまく人」のたとえが神の国の奥義を知るための土台になっているのでしょう。
わたしはいままで余り深く考えずに聖書のたとえを読んできたのですが、よく考えると、たとえは応用が利きますから、それに対して自分の知識とか体験に照らし合わせていろいろ解釈することができます。
そして、その人が解釈する範囲というのは、その人の知識とか体験によって自ずから決まり、それ以上でもそれ以下でもないのですね。
だから、たとえをどのように解釈するかで、その人の知識とか体験の内容を知ることができると言えるのではないでしょうか。
また、たとえにはこのような利点もあると思うのです。
それは、人に全く新しい何かを伝えようとする場合には、必ず反対する人や敵対する人がいるものです。
この世はすべてが相対的ですからね。
そういう人にもたとえで語ると、ストレートに言うより角が立たずに受け入れられやすいと言えないでしょうか。
このように、たとえは間接的に人に対して注意を喚起する場合にもとても役立つと思います。
また、たとえには、誰でもが知っている身近なことを用いるとなお理解しやすいし受け入れられやすくなると思うのです。
たとえは、わたしたちに理解困難な神の国のことを伝えるのに最適なのはわかりますが、その他にもいろいろと効用があったのです。
イエスはよく考えておられますね。感心します。
とくに、イエスが語ろうとする相手(ユダヤ教の一派、ファリサイ派の人達)は頑なで傲慢な人達ですからなおさらです。
これほど気を使ってイエスは語られたのに、最終的には、そのたとえが自分達を指して語られていると分かった時にイエスに対して殺意を持ったのです。
このようにたとえは、聞く人一人一人にそれぞれ違った働きかけをして、その人が持っている状況に応じた解釈ができると思うのです。
ということは、時代が変わっても、いつまでもその時代の状況に応じた解釈ができるということになると思います。
だから、聖書は時代を乗り越えて今でも読む者に生き生きと語りかけるのです。
ということは、そこに聖霊の働く余地が大いにあると言うことになります。
聖書では旧約聖書の時代から知恵は神から来ていると伝えています。
わたしたちが聖書を解釈する知恵も、たとえを解釈する知恵も神の御霊、聖霊の働きから来ていると言えます。
その知恵は、利口に立ちまわる知恵ではなく、読む者が持っているものと、読む者の周囲の物事から、いろいろな角度でたとえを読み取ることのできる知恵です。
宇宙を見て、自然を見てそこから神を読みとくのも知恵と言えるのではないでしょうか。
宇宙も自然も神が作られたのですから、ある意味、神がわたしたちに語りかけておられるたとえと言えるでしょう。
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