手の萎えた人を癒す(マルコ3章)
聖書箇所は、マルコの福音書第3章1節から6節/マタイの福音書第12章9節から14節/ルカの福音書第6章6節から11節です。
共観福音書のこの個所の内容はあまり違わないので、マルコの福音書を読んでみたいと思います。
この箇所は、安息日が主題ですから、まず旧約聖書の安息日の規定を書きます。
創世記第2章3節「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」
出エジプト記第20章8節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」
出エジプト記 第20章10節「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」
マルコの福音書第3章
●1節.イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
イエスはユダヤ教の会堂に入られました。
それは、安息日にそこに集まるユダヤ教徒に神の国の教えを語るためでありました。
会堂に集まったユダヤ教徒の中に片手のなえた人がいました(1節)。
病人を治療する行為も一種の仕事ですから、律法では原則として安息日にしてはならないこととされていました。
ただ生命にかかわる緊急の場合には例外として認められていたようです。
ファリサイ派の人(ユダヤ教徒でユダヤ教の律法(戒律)を厳格に解釈し、それに忠実であろうとした人々)たちは、イエスのことをよく知っていて、この片手のなえた人を癒されるだろうと推測していたようです。
イエスはいつも一番弱っている人、一番助けが必要とされている人に手を差し伸べておられるからです。
いやしのみ業は、憐れみゆえになされることが多いように思います。
●2節.人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
「人々はイエスを訴えようと思って」、とありますが、それは、片手の萎えた人の場合は明らかに緊急の場合ではないので、もしイエスがこの人を癒す業をされたならば、それは明らかに安息日の律法を破る行為であり、民衆に律法違反を教える異端の教師として最高法院に告発することができるということでしょう。
イエスの言動を監視するために会堂に来ていたファリサイ派の人たちの思いを見抜いて、イエスはあえて言われます。
●3節.イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
●4節.そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
病人を癒すことは命を救うことにつながるから常に善です。
逆に行うべき善があるのに行わないのは悪です。
また、救うことができる命を救わないのは殺すことです。
いま目の前にいる病人を癒すことが、安息日の律法で禁じられているという理由で見過ごしにすることは、はたして善であろうか、と問われたのでしょう。
イエスは手が萎えて困っている人を目の前に立たせて、批判者たちを問い詰めましたが、「彼らは黙っていた」、つまり、答えることができなかったのです。
答えることができなかったのは、安息日であっても殺すよりは命を救う方が、つまり、悪よりも善を行う方が、誰が考えても神のみ心にかなっていることは明白であるからでしょう。
そうだと答えれば、安息日に治療行為を禁じた律法を遵守するように求める自分たちの立場がなくなります。
イエスにこの矛盾を問い詰められて彼らは一言も答えることができなかったのです。
彼らの内心には、もともとイエスに対する憎しみがあったので、それがこの詰問によって決定的な殺意となったのではないでしょうか。
●5節.そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
イエスは、もはや彼らの答えを待たないで、彼らのいう律法にあえて違反して、手のなえた人を目の前で癒されました。
この場面では、イエスに怒りと悲しみがあったことを伝えています。
福音書にはイエスが感情を表に出される場面は余りないので、その意義は深いと思います。
おそらく、このイエスが涙を流される原因となった、怒りと悲しみはイスラエルの民の対する思いだと思います。
長い歴史の中で、神がイスラエルに預言者を通して語りかけ導いてきたに、彼らは語りかけた言葉の真意を理解しないで、預言者を殺し、今は御子イエスに殺意を持っている。
彼らが待ち望んでいたメシアであるイエスが来たのにその現実を見ようともしない。
イエスの怒りと悲しみは、そのかたくなな心に対する神の怒りと悲しみを表しているのではないでしょうか。
どうして、彼らの心がなぜそんなに頑なになってしまったのでしょうか。
頑なな心は罪をうみます。わたしたちも気をつけねばならないことです。
それは、頭書に書いた創世記と出エジプト記の安息日の規定の真意を彼らが正しく受けとめることができなかったからだと思うのです。
律法学者たちは、律法は神の御心を指し示している神の言葉なのに、定められた神の真意も理解せず、律法の文字だけに囚われて、自分たちの権力基盤を守るための道具に、そして、大衆を支配する手段にしてしまったのだと思うのです。
イエスの「手を伸ばしなさい」という言葉に、もし、この人が手を伸ばせるはずはないという思い込みで手を伸ばしていなかったら、その手は萎えたままであったでしょう。
ところが彼はその伸ばせるはずのない手をただイエスのお言葉だからそれに従って手を伸ばしたのです。
すると神のみ力が働いて、その人は手を伸ばすことができ、手は元どおりになったのです。不思議ですが事実でしょう。
その場には、群衆という大勢の証人がいるのですから、嘘であれば聖書に書いても嘘がすぐにばれてこの物語は残っていないはずです。
ここで大切なことは、何事も神が求められれば、まず人間が求めに応じて行為をするから神が働かれるということだと思います。
手を伸ばさなかったらこの人は癒されなかったのですからね。
ということは、聖書を読むときにも、屁理屈をこねたり、疑ってばかりしないで、素直にそのまま受け入れて読むことが必要だということでしょう。
この事実を目の前にしたフアリサイ派の人たちは、驚くと同時にイエスに決定的な殺意を持ったと思います。
●6節.ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
彼らは律法を自分たちの義(正義)を立てるためによりどころとしていましたので、その律法(自分たちのための)を根底から否定されて、その恨みは極限に達して殺意を決定的にしたと思います。
数多くある律法の規定の中で、安息日の規定はその象徴となっていたのでしょう。
律法によるいろいろな戒めは、命を救うことと善を行うことのためにあるのです(4節)。
言い換えれば、イエスが言われた新しい戒めである「第一に神を愛し、第二に隣人を自分のように愛する」ことに集約されると思います。
律法は何何をしてはいけないという行為規範です。
行為規範を与えられたのはイスラエル民族が宗教的にも民族的にも未熟であったからです。
その真意は、神と隣人に対する愛を教えようとされていたと思うのです。
なぜなら、律法を守ることが神をあるいは隣人を愛することにつながるからです。
逆に言えば、神を愛し隣人を自分のように愛せたら、行為規範である律法などいらないと思うのです。
イスラエル民族は神から与えられた律法を字義どおりに、自分たちに都合よく解釈して道を間違ってしまいました。
わたしたちも聖書を読むときは、文字の字義に囚われずに、その意味するところを霊的に知ろうとする必要があると思うのです。
したがって、聖書解釈は柔軟であることの応用ですから大切なことと考えます。
聖書の言葉を通して、神が何を語ろうとされているか、神の御心を知ることが大切かと思うのです。
それを教えて下さるのがイエスの御霊、聖霊だと思います。聖霊は解釈の中に働かれると思います。
これを霊的な聖書の読み方というのでしょう。だから聖書を祈って読むのですね。
ファリサイ派の人も、安息日の規定(律法)を正しく受けとめることができなかったのは、安息日規定の字義だけにとらわれていたからだと思います。
安息日を守りなさいと書いてあるから、これを絶対と見なして厳格に守ろうとする、すると自然にいろいろと細かな規則を作ることになり、それを皆に厳しく守らせようとする。
その結果、してはいけないことが増えます。それを一生懸命守ろうとすることが、逆に人を縛って、正しい生き方を殺してしまうことになるのです。
まさに、命を救っているつもりが命を殺している、善を行っているつもりが悪を行っているという状態になるのです。
パウロはコリントの信徒への手紙二 第3章6節で「・・文字は殺しますが、霊は生かします。」と言っていますが、そのことを言っているのでしょう。
わたしたちが聖書を読むに当たり気をつけるべきことは、聖書の背景と言葉の流れを考えないで、字義だけに囚われて、絶対化してはいけないと言うことだと思います。
聖書の言葉は、聖霊の働く御言葉ですが、あくまでも人間の言葉であることに変わりはありません。
書かれてある文字の字義にとらわれると、その言葉の本当の意味を見失い、神の御心とは逆のことをしてしまうから怖いのです。
わたしたちが言葉を文字にして時代を超えて何かを伝えますが、その文字は言葉を発した人の真意を伝える手段としては不完全ですから、その言葉を発した人の真意を正確に伝えることはむつかしいと思うのです。
だから、聖書を読む時は、言葉の真意は聖霊が伝えてくださると信じ、聖霊は、人の命を生かし、善いことをしょうとされている御霊であることを忘れずに解釈したいと思います。
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