ファリサイ派の人々とヘロデのパン種(マルコ8章)
聖書箇所は、マルコの福音書第8章14から21節です。
共観福音書の並行個所はマタイの福音書第16章5から12節 です。
●14節.弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
●15節.そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
15節でイエスは「ファリサイ派の人々のパン種(パンをふくらませる働きをするイースト菌のこと)とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と弟子たちに戒められたと書いてあります。
ここで言われているのは、食料としてのパンそのものではなくパンを膨らませる働きがあるパン種に意味があるのでしょう。
パン種は何かを象徴しているのでしょうか。
そうであるならば、14節で弟子たちはパンを持ってくるのを忘れて心配しているのは的外れだということになります。
おそらく、大衆全員に食べさせるパンがないことを心配している弟子たちにイエスは、本当に心配しなければならないのは食物のパンではないと言われているのでしょう。
そうですね、弟子たちはイエスの弟子になったばかりで信仰は未熟で、古い信仰(ユダヤ教)と慣習に生きる自分を引きずって、まだそこから抜け切れていないのかもしれません。
わたしが思うに、ここのパン種はおそらく、悪魔に唆されてイエスを十字架にかけた、そのために主導的役割を演じたフワリサイ派の人々の偽善を指しているいると思うのです。
イエスはそのようなフワリサイ派らの人たちを、マタイの福音書第23章13節で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」といって叱責されておられるからです。
偽善とは、「外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事」を言いますが、フワリサイ派の人々はモーセ律法をそのように自分たちの都合に合わせて解釈し、利用していたのですね。
僅かのパン種が全体を膨らませるように、悪魔に唆されて人間の内面に隠されている僅かの邪悪な精神や誤った思想が、弟子たちの信仰を滅ぼしたり、人間自体を腐敗させたりするのを恐れて、パン種のたとえを用いて弟子たちに忠告されたと思うのです。
●16節.弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
イエスの真意もわからないで、弟子たちは宣教の旅で、手持ちの食料がないことを心配し、その対策を議論したり、そうなった責任を互いになすりつけたりしたのでしょう。
弟子たちは、これだけ奇跡を見せられても、イエスが何者であるかも理解せず、イエスが伝えようとされていることを理解することもなく、必要なものは備えて下さる神への信仰を忘れて、食べることばかりを心配しています。
●17節.イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
イエスは、弟子たちが手持ちの食料が少なく不安に思って心配しているのを叱責されます。
そうでしょう、この少し前にイエスは五千人(マルコの福音書第6章30節から)、そして、四千人(マルコの福音書第8章1節から)に食べ物を与える奇跡をお見せになり、それを弟子たちは目の前で見て実体験しているのですから弟子たちは、イエスが神を体現されている方だということが分かっているはずなのにです。
そして、その奇跡が何を意味するか、すなわち、終わりの日が、神の支配がイエスの内に到来していることを弟子たちは理解していないのです。
イエスは「・・・まだ分からないのか。悟らないのか」と言って、彼らの無理解を嘆いておられます。
マタイの福音書第6章31節でイエスが言われたことを思い出します。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。あなた方の天の父は、・・必要なことをご存じである。」
弟子たちがパンのことで議論しているのを知って、「あなたがたが本当に心配しなければならないのは、食べ物のパンのことではなく、ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派の悪魔に支配された彼らの精神なのだ」と言っておられるのでしょう。
●18節.目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
イエスは弟子たちに言われます。あのパンの奇跡を思い起こしなさいと言って、弟子たちの無理解にイエスは嘆かれ、叱責されます。
●19節.わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
●20節.七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
●21節.イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
弟子たちは、パンを食べた人の人数、もともとあったパンの数、そして残ったパンの籠の数をイエスに聞かれて答えました。
五つのパンが、五千人に渡っただけでなく、十二の籠に入るパンになった。
七つのパンが、四千人に渡っただけでなく、七つの籠にはいるほど残ったのです。
これが何を表わすのか弟子たちはまだ理解していなかったのでしょう。
そうです、それは人間の業ではない、奇跡です。
奇跡はどこから来るのか、その事態を理解していなかったのです。
こんなにも明らかなことなのに、彼らは悟ることができなかったのです。
イエスの中に到来している終わりの日の事態、五千人あるいは四千人への食べ物を与えた奇跡、まさに神の恩恵による支配の到来が驚くべき形で明らかになっているのにです。
終わりの日に成就する神の恩恵による支配を体現する方が目前におられて、その方と一緒にいるのに、パンが足らないことを心配し、自分たちで対策を立てなければならないように考えて議論しているのです。
何を食べようか、何を着ようかと思い悩むなと言われた神の言葉を信頼せずに、イエスはなんと信仰の薄いものよと嘆かれているのでしょう。
まあ、よく考えたらわたしたちも同じようなものです。
目の前に新しい事態が到来しているのに、いつまでも古い考えかたとか常識にとらわれて、新しい考えを受け入れることができないことなどよくあることです。
人間は常に保守的で自分を変えることが、不安に思うのかなかなかできないものです。
まわりを見渡せば、奇跡はどこにでもあります。
たとえば、水をやるだけで植物が種から生長して花を咲かせる。
今までどこにも存在しなかった一人の人間が赤ちゃんとなって生まれてくる。
人間の役目はその世話をするだけです。
いくら科学が発達しても、どうして命が生まれるのか、どうして成長するのか人間にはわからない。
成長する仕組みはわかっても、その成長の原因はわかっていない。
もっと言えば、わたしたちが住むこの宇宙は奇跡そのものです。
この世の森羅万象は、すべて数学で説明できるそうです。それは統一した摂理で運行されているということです。凄いことです。
そこに神のみ業があるのです。
神の御霊のみ業とはこのように創造する働きです。
目の前にある神のみ業を信じないわたしたちにイエスは、「信仰の薄い者」と言われ、嘆かれたのです。
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