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2018年2月26日 (月)

四千人に食べ物を与える(マルコ8章)

聖書箇所は、マルコの福音書第8章1から10節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書15章32節から39節です。

●1節.そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

●2節.「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

この1節と2節は、先の五千人の供食(マルコの福音書第6章30節から44節)と内容はほぼ同一ですが、別の出来事の伝承であるとされています。

二つの記事を比べてみますと、五千人と四千人、五つのパンと七つのパン、十二の篭と七つの篭、二匹の魚と少しの魚とまず数の違いが目立ちます。

細部においても少し違いがありますが、出来事の内容自体は同じだと思います。

数字や細部の違いは、出来事が語り伝えられていく伝承の過程で違って伝わり生じたものと思います。

違いが少しで、ほぼ内容が同じだから一つの出来事が二つの伝承になったとも一概にいえないと思うのです。

マルコの福音書とマタイの福音書は、おそらく、二つの伝承を出来事が二度あったものとして福音書に書いているのでしょう。

ルカの福音書は五千人への供食のみ記載し、四千人への供食を省略しています。

ルカは五千人の供食を書いて四千人の供食は書いていないのですが、同じ伝承
は二つもいらないという合理的な考えの人物なのでしょうか。
それでも、三つの福音書とも供食の出来事を書いているのを考えると、供食の出来事は事実あった出来事だと推測されます。

この供食の出来事に共通することは、イエスは自ら進んでこの奇跡の業を行われたということだと思います。

その動機は2節にあるように、「かわいそうに」と言われたように憐みです。

そして、「三日間もわたしといっしょにいる」とありますので、群衆は、イエスの奇跡の業と教えが、珍しくもあり驚きの連続でもあったので、食べ物を持参してついて回っていたのでしょう。

しかし、その持参した食べ物も三日間で食べてしまって、なくなってしまった、と言うことでしょうか。

●3節.空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

●4節.弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

3節のイエスの言葉は、お腹をすかした群衆を憐れんででた言葉でしょう。

弟子は、四千人に食べ物を与えことなど不可能なので、そのイエスの言葉に途方にくれました。

しかし、弟子たちは4節の言葉からすると、イエスの様々な奇跡を今までに何度も目にしているのに、イエスにすがろうとしなかったのです。

●5節.イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。

イエスは「パンは幾つあるか」と誰からも懇願されていないのに尋ねました。手元にあるパンは、この前の五千人への供食の奇跡では5つでしたが、ここでは、七つになっています。

●6節.そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。

●7節.また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。

前回の奇蹟では、イエスは群衆を組に分けて座るように言われましたが、ここでは単に座るように言われただけです。

前にも書きましたが、組に分けて座らせたのが、軍隊式だとする意見もありますが、マタイの福音書第15章38節に「女と子供を別にして、男が四千人」とありますから、この場には女性も子供も大勢いましたのでそういうことではないと思います。

6節の「人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」とありますが、前回も、イエスは弟子たちに与えて、弟子たちに配らせました。

一人ひとり渡してもよかったのに弟子に渡されて配られたのです。

この奇蹟の出来事を、弟子たちが見るだけでなく、関わりを持つようにされたのです。つまり、イエスと弟子の共同作業です。意味深長です。

といっても、四千に食べ物を分け与えるのですから、イエス一人では大変ですから、弟子たちの手も必要とされたのでしょう。

●8節.人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七篭になった。

前回の奇蹟では、残ったパンの数は十二の籠に入っていました。

みんなが満腹するほど食べたのに、残ったパンは元々あった数より増えているのです。

「残ったパンは元々あった数より増えている」というように、一粒の種が多くの実を結ぶように、神の国とはそういうところなのでしょう。

●9節.およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。

●10節.それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

群衆が満腹になったので、イエスは解散させました。

そして、すぐにダルマヌタ地方に行かれました。そのときにイエスは群衆に言われました。

ヨハネの福音書第6章26節に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満足したからだ」とありますから、解散させられた群衆は、おそらくその場を逃げるように去られたイエスを捜したのでしょう。

おそらくイエスは、群衆がイエスを探している動機が変わってしまったのに気付かれたからその場を離れられたのでしょう。

人々はイエスの新しい教えとか病のいやし見て驚き、その上に食べ物も得ました。

その気持ちが、もっと何かを得たい、というように貪欲に変わったのだと思うのです。

人間の欲望はきりがないですからね。

ですから、イエスは群衆から離れられて、ダルマヌタ地方(ガリラヤ湖の西側の岸に当たる)に去られたのでしょう。

しかし、供食の奇跡は初めてであったのに、イエスの弟子たちの驚きの言葉がありません。

弟子たちは当然のように受け止めている感じです。

それにイエスは群衆の信仰も求めていません。

このようにこの奇跡をみますと、この奇跡は、わたしたちの必要をご存じで、必要を満たしてくださる賜物の奇跡といえます(マタイの福音書 第6章8節他)。

賜物を戴くのに、行いも信仰も必要としないのです。

信仰を必要とするいやしの奇跡のあとにこのような賜物の奇跡を行われたことは、そこに何か意味があるのではないでしょうか。

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