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2018年2月21日 (水)

昔の人の言い伝え(2)(マルコ7章)

聖書個所はマルコの福音書7章1節から23節です。

(2)ではマルコの福音書第7章14から23節を読みます。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章1から20節 です。

この個所は、「昔の人の言い伝え」の後半です。

マルコの福音書第7章2節から5節で「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったのですが、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をしている者がいたのです。

また、市場から帰ったときには、[異邦人など汚れたものに触れているからという理由で]身を清めてからでないと食事をしないのですが、それは、ハラカ(神がイスラエルに与えたモーセ五書の細則。いわゆる、昔の人の言い伝え)という人間がつくった戒めがあったからです。

律法学者らはそのハラカを堅く守っていました。

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに尋ねました。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 と。
14節以降はそれに対するイエスの答えです。

●14節.それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
イエスは、人を汚すものの話をされます。

まずイエスは、「聞いて悟りなさい」と言われました。イエスの言葉を聞いて悟るように言われたのです。

16節には「聞く耳のある者は聞きなさい。」とイエスは云われたと書かれています。

ローマの信徒への手紙 第10章17節でパウロも云っています。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

したがって、キリストに従う、ということも、神の言葉を聞くことだと思います。

この聖句によれば、その聞くのも「聞く耳」がなければ意味がない。そこに人の努力が求められると思うのです。

●15節.外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。

●16節.聞く耳のあるものは聞きなさい。

●17節.イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

この場面で「外から人の中に入ってくるもの」といえば食物だということはよくわかります。

当時手でパンをつかんで食べていましたから、手が汚れていればパンも汚れるというのはわかりますが、もし、パンなど食物が、(神が人間に与えたものだから)どのような方法で口に入っても人を汚すことがないのであれば、それに触れる手が汚れているかどうかは問題ではなくなります。

すると、手を洗うことは無意味であり清めのハラカは否定されます。

食物に触れる手の清めまで問題にして律法を厳格に守ろうとしているファリサイ派の者たちが、イエスの言葉に憤激したのは当然です(マタイの福音書第15章12節)。

しかし、よく考えると、食物がいくら汚れていても心は汚れません。

体にしても、特別な毒薬でも入ってない限り食物はお腹に入り胃酸で殺菌され、必要なものは吸収されて残りは外に出て行くだけです。

食物の汚れで心が汚れなければ、神の前での人間の在り方にも問題がないはずです。

つまり、どのような食物でも、どのような食べ方をしても人間と神との関係には影響はないということです。

もちろん、人間の体に影響を及ぼす毒が入った食物もありますが、それらは神が食べてはいけないと定められている食物ですから、論外です。

食中毒も、正しい食べ方をしなかった結果ですから論外です。

●18節.イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。

イエスの15節のたとえ話が、弟子たちはよくわからなかったので、イエスに尋ねます(17節)。ここはそれに対するイエスの答えです。
イエスは、弟子たちが聞く耳を持っていなかったことを責めておられます。

彼らは、イエスが数々の奇蹟を行われるのを見て、イエスの教えられることを聞いて最もイエスに接していた人々です。

それなのに、まだイエスのたとえ話の意味を悟ることができないのです。

●19節.それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

ファリサイ人と律法学者は、汚れているとされている食物を自分の体内に入れると、それで神から汚れた者とみなされると考えていました。

それは、清い動物、すなわち食べてもよい動物と汚れた動物、すなわち食べることが許されていない動物の区別が旧約聖書のレビ記11章に食物規定としてあるからです。

イエスはその規定に関係なく、体内に入れるものはあくまでも体に関することで、それが神とわたしたちの関係を決定するものではない、つまり、心まで汚さないと話されたのだと思います。

食べられないもの、良くないものを食べるのはたしかに肉体的に支障を来しますし、神はこの体を造ってくださったのですから、わたしたちは食べる物に注意しなければならないのはわかりますが、それでわたしたちの心が神の前で汚れたり、清くなったりすることはないということでしょうか。

マルコの福音書第7章19節後半の「すべてのものは清められる」の意味ですが、この解釈は難しいです。わたしにはわかりません。

食べられる食物であれば、自然の消化作用によってどのような食物も結局同じ状態になります。

だから、清い食物と汚れた食物の区別は無意味だということでしょうか。

それでは、イエスはレビ記の食物規定(これは最も神がイスラエルに与えた神聖な成文モーセ律法の一部分です。)を無効にしてしまわれたのでしょうか。

マタイの福音書は律法に関係のない「手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」と問題をすり替えました(問題をすり替えたのはマタイの福音書がイスラエル人に対し書かれていますので、イスラエル人に配慮したのかもしれません。)が、マルコの福音書とパウロは「すべての食物か清い」としてレビ記の律法の食物規定を無効にしてしまいました(ローマ人への手紙第14章20節)。

●20節.更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。

そしてイエスは人を汚すものは、わたしたちの心に渦巻く悪い考えであるといわれました。

心を乱すことのない平穏なときは、わたしたちの心は穏やかで冷静に物事を判断できて、きれいに見えます。

しかし、何か事が起こると、つまり、自己の利益が脅かされるとか、妬み心を持つようなことがあると、心はかき乱されて濁ってしまい、邪悪な思いが心の中から出てきて人を汚します。

●21節.中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、

●22節.姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、

●23節.これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

ここで人間の内側から出て来る「さまざまな邪悪な思い」の一覧が挙げられています。

言葉による悪、行為による悪(不品行、盗み、殺人、姦淫)も、すべて心の内にある悪の思いの現れとして扱われています。

それでは、このような醜いわたしたちの心が救われにはどうすればよいのでしょうか。

イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。(マルコの福音書第10章27節)」と言われます。

それは、イエスが十字架上で流された血により、わたしたちの罪は許されて、神のみ言葉を信じ心に留めて、キリストの十字架にすがり生きるときに、わたしたちの心はきよめられ、わたしたちを新しい人間に創造される。

そうして、人間は永遠の命を得ることができる。

これは、神の国、神の支配が到来したことによる結果であり、それを、イエスは2000年前に身をもって示されました。

つまり、神の恩恵の場において賜わる聖霊によって歩む道です。

このようなイエスの新しい教えは、律法遵守が唯一の救われる方法とするユダヤ教の常識をあまりにも超えていました。

イエスは、律法の専門家であるファリサイ派や律法学者の質問に直接お答えになっていないのは、その人たちの考えの根底が間違っているので、質問には直接答えることができないということでしょう。

らは、知識と権威を誇り、上からの目線で、人々を支配し、モーセ律法を自分たちに都合よく解釈し、神の真意から外れたハラカを定め、その律法で民衆を自分たちの宗教制度に服従させる、支配することにとらわれていたようです。

律法が自分たちに都合のよい社会制度の秩序維持の手段として利用されていたのでしょう。

その結果、その自分たちが形成した神学が、どれだけ実際の信仰生活に、あるいは神のみ心に即していないかを見落としていました。

だからイエスは言われたのです。

マタイの福音書 第15章14節で「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」。

突き放した厳しい言葉です。

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