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2018年2月 8日 (木)

「ともし火」と「秤」のたとえ(マルコ4章)

聖書箇所は、マルコの福音書第4章21節から25節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第8章16節から18節です。

マルコの福音書4章
●21節.また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。

●22節.隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

「升」というのは本来穀物を量る器ですが、このともし火のたとえ話では、部屋に窓などがなく排気が悪ければ、そのままでランプを吹き消すといやな煙や匂いがしますので、「升」をかぶせて煙や匂いが漏れないようにしてランプの火を消すために使ったと言うことです。

このたとえ話は、共観福音書では少しずつ違った用いられ方をしています。

マタイの福音書は、山上の説教の中の「地の塩、世の光」のたとえ話の箇所に、弟子たちに世の光になりなさいという教訓の形で置いています(マタイの福音書第5章13節から16節)。

ルカの福音書もこのたとえ話を、「体のともし火は目」(ルカの福音書第11章33節から36節)の箇所に、弟子たちの中にある光(ともし火)が消えないように警告する形で置いています。

マタイの福音書もルカの福音書も読まれる対象があって、そのために書かれていますが、わたしはマルコの福音書は神の国到来の現実を語るイエスをそのまま書こうとしていますので、マルコの福音書が実際にイエスが語られた言葉に一番近いのではと思っています。

そうすると、「ともし火」と「秤」のたとえ話の本来の意味は、イエスに到来している「神の国」を語るためのたとえ話であったのではないかと思うのです。

イエスの内にきている神の国、神の支配の現実を光にたとえて語られているのではと思うのです。

だから、光というのはイエス自身を指しているのでしょう。

ひとたび到来したその光は、誰かが力ずくで消したり隠したりしても何れは必ずあらわになるということでしょう。

イエス自身、弟子や周囲の人々から身の危険を警告され隠れるように忠告されましたが、それにもかかわらず隠れるようなことはされませんでした。

イエスは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言われています(22節)。

●23節.聞く耳のある者は聞きなさい。」

イエスはたとえを語るたびに繰り返して「聞く耳のある者は聞きなさい」と警告しておられます。

イエスのたとえは聞く耳を持って聞かなければ何も分からないのです。

たとえ話をただの物語りとして素通りさせてはいけないのです。

聞く耳を持つということは、そのたとえ話が、いま読んでいる自分に対して何を意味しているのか、何を語っているのかを、聞く耳を持って真剣に受け止めなければならないということでしょう。

もしわたしたちがイエスの言葉やたとえ話を単なる物語として読むならば、神もわたしたちに語らず、わたしたちは神から何も受けることはできないということだと思います。

逆に言えば、イエスの言葉やたとえ話を真剣に受け止めるならば、神もわたしたちを真剣に扱ってくださるということでしょう。

次の24節はそのことを言っているのでしょう。

●24節.また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

ここの「量り与えられ」というのは受動態ですから「神が量り与えてくださる」ということになります。

イエスの言葉を読む者がその言葉をどれだけ評価するか、どれだけ真剣に立ち向かうかによって、神もわたしたちを評価し、量り与えてくださるということでしょうか。神様はどこまで行っても公平な方です。

そして、ときには「更にたくさん与えられる。」ということでしょう。

●25節.「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

聞く耳を持っている者、すなわち信仰をもってイエスの言葉を真剣に聞く者は、イエスの言葉を素直に受け入れるので、「持っている人は更に与えられ、」ですから、その人に「本来与えられている神への霊的な感受性」にさらに加えて霊が与えられる、すなわち、聖霊は活発に働き、神の国の奥義を深くその人に示されるということでしょうか。

それに対して、聞く耳を持たない者は、その人の中で聖霊は働くこともできないので、その人は神から遠ざかり、「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」ですから、その人は本来与えられている神への霊的な感受性を失い、霊の生命も枯れてしまうということでしょう。

ルカの福音書の並行個所8章16節に、「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」とあるように、ルカの福音書は「(人が)ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・・・・する人はいない。」と、人の行い(弟子の行い)を描く文書にしていますので、ルカは、弟子に対する勧告としてこのたとえを用いて、イエスに従う弟子たちは、イエスのたとえの奥義をよく理解して、その光を覆い隠すことなく世に輝やかさなければならないと言っているのではないでしょうか。

ルカの福音書の並行個所8章17節には「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。隠されたものは顕われる。」とありますが、この御言葉は、先の16節の「ともし火」のたとえ話の続きと考えます。

したがって、16節の「ともし火」は神の国、神の支配と考えます。

この言葉は当時広く用いられていた格言ではないかと思っています。

イエスはこの格言を用いてすでにイエスの中に到来している「神の国」の姿を描かれているのでしょう。

すなわち、「神の国」は今イエスの中に既に到来しまだ明かされていない(隠れている)が、そのイエスの中に到来している神の支配の現実はやがて必ず顕わになる。

今は秘められた形でイエスの弟子たちには知らされているが、それは必ず公になり現実となる、という宣言されているのでしょう。

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