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2018年2月21日 (水)

耳が聞こえず舌の回らない人をいやす(マルコ7章)

聖書箇所は、マルコの福音書第7章31から37節です。

共観福音書の並行個所はありません。

マルコの福音書第7章
●31節.それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

デカポリス地方もティルスの地方と同じく異邦人(ユダヤ人以外の人)の住んでいる所で、そこを通り抜けてガリラヤ湖にやってこられました。

ユダヤ人の住んでいるところはユダヤ教指導者層の監視の目が厳しいのでそのようにされたのでしょう。

●32節.人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

イエスがガリラヤ湖に来られると、「耳が聞こえず舌の回らない人」が人に連れられて来ました。

「その上に手を置いてくださるようにと願った。」とありますから、患者がその様に願ったということでしょう。

イエスと患者は、このときすでに意思の疎通ができていたということでしょう。

●33節.そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」、とありますが、どういうことでしょうか。

ずいぶん変わったやり方ですね。何かのお呪いみたいです。

イエスは他の個所では、病をいやされるときは、相手方に信仰を確認されています。

この場合は、どのようにして信仰を確認したのでしょうか。何しろ、相手は耳が聞こえないしうまく話せない人です。

ただイエスが彼を群衆から連れ出されたので一対一の会話もされたのだろうと思いますが、耳が聞こえない彼とどのようにして会話されたのでしょうか。

イエスは相手の心を読みとることができるお方ですから、その様な心配はいらないかもしれません。

●34節.そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

この節の注目すべき言葉は、「エッファタ」だと思います。

「エッファタ(開け)」と、イエスは「天を仰いで深く息をつき」ですから、万感を込めて開けと叫ばれたのです。

この言葉は、アラム語で、イエスが発せられた言葉をそのまま保存しているのです。

イエスが発せられた言葉をそのまま残しているということは、おそらく、その場面が非常に印象的であったので、弟子たちはその言葉に強い関心を持ち発せられた言葉をそのまま残したのでしょう。

聖書にはこのような個所があちこちにあるのです。

だから聖書が作り話だとはとても思えないのです。

聖書はのちの教会によって改ざんされているから信頼できないなどともよく言われますが、そうであれば、発せられた言語をそのまま残すでしょうか。

写本を書くとき、翻訳するときにはわかりやすい言葉に書き換えるはずです。

それに、この個所を読んでいると、その場の様子がなまなましく伝わってきます。

それは、イエスの癒しの場面を実際に目撃していた人から伝えられたものだからではないでしょうか。

●35節.すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

イエスの「エッファタ(開け)」の一言で、この人の耳はたちまち開いて聞こえるようになりました。

言語器官に障害があったのか、うまく話せなかった言葉もはっきりと話すことができるようになったのです。

この人は、言葉がうまくしゃべれなかったということですから、生まれつきの障害者でなく中途障害者でしょうか。

悪霊の力に捕えられてうまくしゃべれなかったように見受けられます。

●36節.イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

「だれにもこのことを話してはいけない」とイエスが言われる個所は、たびたび出てきます。

イエスが口止めされたのは、まだイエスの時(十字架の時)がきていないからでしょうか、それとも騒ぎが大きくなるのをきらわれたのでしょうか。

よくわかりませんが、病気癒しとか奇跡を行なうイエスを見て、病気を癒された本人はもとより、その出来事を見た人びとは黙ってはおれなかったのです。

イエスの評判がすでにガリラヤだけでなく、その周辺の異邦人の多い地方にも広まっていたと思います。

誰でも、驚くべきことを眼にすれば、体験すれば人に言いたくなるものです。

いくらイエスに口止めされてもダメでしょう。

こういう霊能信仰、病気癒しの伝道、奇跡信仰で信者を増やす新興宗教はいまでも盛んですが、それらが真実かどうかは別にして、イエスの場合と違うのは、イエスは一部の信徒の前で奇跡をおこなうのではなく、一般大衆の前で奇跡をおこなわれることです。

そう、東京のど真ん中、永田町あたりで、多くの大衆の面前で奇跡をおこなっておられるのです。

それらは、イエスの奇跡が事実であることを証しています。

イエスがこの世に来られたのは、そのような一地域の一部の人の病の癒しではなく、全世界の人類の罪の購いと、神の支配の到来を告知することが目的だったからです。

イエスが、一地域の一部の人を癒されたのは、イエスの深い憐れみゆえと思います。

●37節.そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

ここはその場にいた人たちのイエスに対する評価です。

彼らはユダヤ人ではなく異邦人ですから、イエスがキリストであるとか、メシヤであるとかの認識はなかったと思います。

そうしたイエスの関する知識を持たない人が、素直に客観的にイエスを見て、この方のなさることはすばらしい、と言ったのです。

そして、「耳の聞こえない人」と「口の聞けない人」と分けて感嘆の言葉を残しています。

両方の障害を一度に直された、と言って、非常に驚いたということでしょう。当時の素朴な民衆の反応だと思います。

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