シリア・フエニキアの女の信仰(マルコ7章)
聖書箇所は、マルコの福音書第7章24から30節です。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章21から28節 です。
マルコの福音書第7章
●24節.イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
「そこ」というのは、ガリラヤのことでしょう。イエスはガリラヤを去られました。
ティルス地方は、ガリラヤから北西へ約六十キロにある地中海沿いということです。
ここはユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人が多く住んでいる地域でした。
ここから弟子たちを連れて異邦人の住む地域を巡回するイエスの旅が始まるのでしょう。
「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。」とありますから、ここでもイエスは、誰にも知られたくないと言っておられます。
それは、まだ十字架の時が来ていないからだと思います。
まだまだユダヤ教当局に捕まるわけにはいかない、やるべきことがある。
なによりも、ご自分が殺された後、福音を受け継ぐ弟子たちを教育する時間を必要とされたのでしょう。
イエスはエルサレムの宗教当局の追求の手が届きにくい異邦人の居住地ティルス地方に来られたのですが、わざわざエルサレムから派遣されたユダヤ教の学者たちの目が光っていました。
ティルスはイエスにとって異郷の地ですが、それでもイエスの一行が来ていることはすぐに噂になっていました。
既にイエスの噂は、イスラエルのみならず周囲の異邦人の地にも広がっていたのでしょう。
●25節.汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
イエスの噂を聞いた幼い娘を抱いたカナン人の女性は、イエスの弟子に追い払われても叫びながらついてきました。
女性の追い込まれた悲壮感が伝わってきます。娘のことを思う親の気持ちがよく伝わってきます。
女性は必至でイエスがおられる家を探したのでしょう。
イエスを見つけると女性は足元にひれ伏して自分の娘を癒してくださるように懇願しました。
幼い娘は汚れた霊(広い意味で悪霊)につかれていて、おそらくそれまでいろいろな方法で悪霊を追い出すことを試みたが、どうしても追い出すことができなかったのでしょう。
それで、最後の頼みとしてイエスにすがったのでしょう。
状況は絶望的で深刻であることは、イエスの足元にひれ伏して懇願している女性の姿からも十分うかがわれます。
汚れた霊というのは、広い意味で悪霊とも言っていますが、おそらく、人間の迷える霊だと思います。
サタン(悪魔)は神に反逆した天使長で、悪霊はサタンが神の反逆した時について行った天使で堕天使とも言われています。
そして、「汚れた霊」というのは、人間の迷える霊だと思います。
この中で人間に憑依できるのは「汚れた霊」だけだと言うことです。
そういうサタンと二つの悪霊がこの世界を跋扈して、わたしたちを神から離反させようと、あるいは悪に誘っているということです。
その様にわたしは思っています。
●26節.女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
ここではわざわざ彼女がユダヤ人ではなく異邦人であること、すなわちユダヤ教徒ではなく異教徒であることを強調しています。
●27節.イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ちょっとわかりにくい内容なのですが、「この子供たち」というのは、ユダヤ人からなるイスラエル人を指し、「小犬」というのは、異邦人の女を指しているのでしょう。
この箇所は、優先関係を言っていて、食物は、異邦人よりもイスラエル人に優先して与えるということでしょう。
それでは、この食べるというのは普通の食物かそれとも霊の食物のことを言っておられるのでしょうか。
マタイの福音書第15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って、イエスがご自分の使命をイスラエルの民に神の救いをもたらすことに限っておられます。
その使命のために賜わっているものを今は異邦人のために与えるべきではない、ということでしょうか。この節だけではよくわかりません。
しかし、次の節を読むと、この食物が聖霊をさしているのだということがわかります。
●28節.ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
異邦人の女性は何を言おうとしているのでしょうか。
そこで、当時の食事の時の慣習を調べてみますと、当時の食事は手を使って食べていました。
そして、パンの一切れを最後まで残しておいて、汚くなった手の汚れをそのパンでふきとっていたそうです。
そして、その手の汚れをふき取ったパンを捨てずに自分の家で飼っている犬に与えていたということです。
この慣習を踏まえてこの個所の女性の言葉を解釈すると、女性は、犬でさえイスラエルに与えられたパン屑のおこぼれをいただくことができるのだから、この異邦人(ユダヤ人ではない人々)のわたしもおこぼれをいただくことができる、つまり、イエスに頼る他に方法がない女性は、「主よ、わたしは神の民であるイスラエル人ではありません。わたしは異邦人だから、食卓につくことができる神の子供ではなく、食卓の下にいる小犬です。
食卓の下の小犬でも食卓から落ちるパン屑はいただくのですから、異邦人のわたしでも、主が神の民であるイスラエルに与えておられる御霊の働きによる救いをいただくことはできるはずです。どうかわたしを助けてください。」と言っていることになります。
病気の癒しは、神の霊、聖霊の働きですからね。御霊の働きがあるところに神の救いが来ているのです。見事な信仰です。
このようにみると、信仰とは自分の状態、つまり条件を問題にせず、ひたすら神の恩恵と憐みを頼りにして、神にすがるという行為と言えるのではないでしょうか。
●29節.そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
彼女の信仰によって、イエスは、今までにない大きな奇跡を行われました。
それは、他の癒しの奇跡のように病人に手を触れないで、遠くから、それも特に何も言葉で命じられることもなく娘から悪霊を追い出されたということです。
ユダヤ人の弟子たちは、救いは自分たちからと思っていたでしょうから、異邦人にも救いがくるという事実を見せられて、さぞ驚いたことでしょう。
●30節.女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
異邦人の女性の娘が清められたのは、「悪霊は出てしまっていた。」からですが、それはその代わりに神の御霊、聖霊がその娘に住まわれたからと言えるのではないでしょうか。
女性は、イエスが伝える神が本物だと見抜いていました。
それに、イエスの神ならきっと自分の願いを受け容れてくれるという強い信仰もあったのでしょう。
プライドも何もかも捨てて、ひたすらイエスにお願いしたのです。
こういう理屈抜きの信頼というか信仰が、イエスを動かしたといえます。
イエスがわざわざご自分はイスラエルのために使わされていると言われたようにまだ異邦人の時が来ていないのにその神の契約さえも変更させたのです。
それは、ただイエスの憐みによるのではないでしょうか。
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