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2018年2月の記事

2018年2月27日 (火)

ベトサイダで盲人をいやす

聖書箇所は、マルコの福音書第8章22から26節です。

共観福音書の並行個所はありません。

●22節.一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

終わりの日におこるべきしるしは、旧約聖書イザヤ書第35章5節6節によると、「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」と預言されていました。

マルコは旧約聖書の終わりの日に起こるべき預言の成就の一つの出来事としてこの「盲人をいやす」奇跡を書いたのだと思います。

マタイの福音書は、明確に第11章5節でそのように伝えています。

そして、イエスがイザヤ書で預言された、来るべき方であると言っています。

マタイはイスラエル人を対象に福音書を書いていますので、イエスの出現が旧約聖書の預言の成就であることを明確にしたかったのでしょう。

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ファリサイ派の人々とヘロデのパン種

聖書箇所は、マルコの福音書第8章14から21節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第16章5から12節 です。

●14節.弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

●15節.そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

15節でイエスは「ファリサイ派の人々のパン種(パンをふくらませる働きをするイースト菌のこと)とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と弟子たちに戒められたと書いてあります。

ここで言われているのは、食料としてのパンそのものではなくパンを膨らませる働きがあるパン種に意味があるのでしょう。

パン種は何かを象徴しているのでしょうか。

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2018年2月26日 (月)

四千人に食べ物を与える

聖書箇所は、マルコの福音書第8章1から10節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書15章32節から39節です。

●1節.そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

●2節.「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

この1節と2節は、先の五千人の供食(マルコの福音書第6章30節から44節)と内容はほぼ同一ですが、別の出来事の伝承であるとされています。

二つの記事を比べてみますと、五千人と四千人、五つのパンと七つのパン、十二の篭と七つの篭、二匹の魚と少しの魚とまず数の違いが目立ちます。

細部においても少し違いがありますが、出来事の内容自体は同じだと思います。

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シリア・フエニキアの女の信仰

聖書箇所は、マルコの福音書第7章24から30節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章21から28節 です。

マルコの福音書第7章
●24節.イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

「そこ」というのは、ガリラヤのことでしょう。イエスはガリラヤを去られました。

ティルス地方は、ガリラヤから北西へ約六十キロにある地中海沿いということです。

ここはユダヤ人以外の人々、つまり、異邦人が多く住んでいる地域でした。

ここから弟子たちを連れて異邦人の住む地域を巡回するイエスの旅が始まるのでしょう。

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2018年2月21日 (水)

昔の人の言い伝え(2)

聖書個所はマルコの福音書7章1節から23節です。

(2)ではマルコの福音書第7章14から23節を読みます。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章1から20節 です。

この個所は、「昔の人の言い伝え」の後半です。

マルコの福音書第7章2節から5節で「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったのですが、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をしている者がいたのです。

また、市場から帰ったときには、[異邦人など汚れたものに触れているからという理由で]身を清めてからでないと食事をしないのですが、それは、ハラカ(神がイスラエルに与えたモーセ五書の細則。いわゆる、昔の人の言い伝え)という人間がつくった戒めがあったからです。

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昔の人の言い伝え(1)

聖書個所はマルコの福音書7章1節から23節です。

長いので(1)ではマルコの福音書第7章1から13節を読みます。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第15章1から20節 です。

マルコの福音書第7章
●1節.ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

「ファリサイ派の人々」とはモーセ律法を厳格に守ろうとするユダヤ教の一派の人々です。

その人たちは宗教熱心なので、民衆に評判の良い新しい教えを宣べ伝えているイエスに大きな関心を寄せていたことでしょう。

後でこの人たちとイエスは険悪な関係になるのですが、最初の内はイエスに対話を求めて食事に招いたりしていたのです(ルカの福音書第7章36節)。それもイエスが敵か味方かを探るためであったのでしょう。

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耳が聞こえず舌の回らない人をいやす

聖書箇所は、マルコの福音書第7章31から37節です。

共観福音書の並行個所はありません。

マルコの福音書第7章
●31節.それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

デカポリス地方もティルスの地方と同じく異邦人(ユダヤ人以外の人)の住んでいる所で、そこを通り抜けてガリラヤ湖にやってこられました。

ユダヤ人の住んでいるところはユダヤ教指導者層の監視の目が厳しいのでそのようにされたのでしょう。

●32節.人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

イエスがガリラヤ湖に来られると、「耳が聞こえず舌の回らない人」が人に連れられて来ました。

「その上に手を置いてくださるようにと願った。」とありますから、患者がその様に願ったということでしょう。

イエスと患者は、このときすでに意思の疎通ができていたということでしょう。

●33節.そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

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2018年2月20日 (火)

5000人に食べ物を与える

聖書箇所は、マルコの福音書第6章32節から44節 /マタイの福音書第14章13節から21節/ルカに福音書第9章10節から17節です。

マルコの福音書第6章
●32節.そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

●33節.ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

●34節.イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

●35節.そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。

●36節.人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」

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2018年2月15日 (木)

洗礼者ヨハネ、殺される

聖書箇所は、マルコの福音書第6章14から29節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第14章1から12節/ルカの福音書第9章7から9節です。

●14節.イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

●15節.そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

イエスの名が知れ渡ったというのは、イエスはこの時までに、重い皮膚病の人を癒したり、人にとりついた汚れた霊を追い出したり、嵐を静めたり、死んだ人を生き返らせたりしていましたから、いやがうえにもイエスの人気は盛り上がっていたでしょう。

人々は、そのようなイエスを見て洗礼者ヨハネが蘇ったのだと噂をしていました。

「エリヤ」は旧約聖書の預言者です。

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湖の上を歩く

聖書箇所は、マルコの福音書第6章45から52節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書14章22から33節です。

マタイの福音書とマルコの福音書は大体同じです。

違うところは、マタイの福音書はマルコの福音書にはない記事を書き加えています。それはマタイの福音書第14章28節から33節のペトロの体験談です。

ペトロがイエスの命令に従って水の上を歩き、途中で怖くなって沈みかけ、イエスによって助けられるという記事です。

●45節.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。

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ゲネサレトで病人をいやす

聖書箇所は、マルコの福音書第6章53から56節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第14章34から36節です。

イエスは、ゲネサレトへ着かれてから、周囲の町や村を巡ろうとされたようですが、すでにイエスの病人の癒しの評判がガリラヤ中に知れ渡っていたのでしょ う。

周囲の町や村を巡るどころか、大勢の人たちがイエスのおられるゲネサレトへ押しかけてきました。

ゲネサレトは湖に面して、背後にかなり広い平野があって、北のカファルナウム、南のマグダラやティベリアス、ナザレやカナからも来やすいところにあるということですから、ガリラヤ中から病を持った人々がすがる思いでイエスのところへやってきたのでしょう。

●53節.こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。

解説書を見てみると、ゲネサレトは湖に隣接して広がるティベリアス北方、カペナウム西方の肥沃な地域であって、ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレ湖」とも呼ばれているということです。一度行ってみたいですね。

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ナザレで受け入れられない

聖書箇所は、マルコの福音書6章1節~6節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書13章53節から58節、ルカの福音書4章16節から30節です。

マルコの福音書6
●1節.イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

●2節.安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

イエスは故郷ナザレに帰り人びとに教えを述べられました。

マルコの福音書第6章2節には、イエスの会堂での教えに「・・人々はそれを聞いて驚いて言った・・・」、とあります。

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2018年2月11日 (日)

悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(2)

聖書箇所は、マルコの福音書第5章1から20節で、今回は二回目で、13節から読みます。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第8章28から34節/ルカの福音書第8章26から39節です。

汚れた霊どもがイエスに願ったのは、苦しめないでください、この地方から追い出さないでください、豚に乗り移させてくださいの三つでした。

そこで、イエスは、汚れた霊どもの願いを聞かれます。

人格(霊格?)ある存在は自分の意志を持っていますから、選択権を与えられると言うことでしょう。

●13節.「イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」

豚二千匹が一斉に崖を下ったのです。すごい光景でしょう。

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悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす(1)

聖書箇所は、マルコの福音書第5章1から20節ですが、長いので二回に分けて読みます。
一回目は12節までです。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第8章28から34節/ルカの福音書第8章26から39節です。

マルコの福音書第5章
●1節.「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

一行とはイエスとその弟子たちのことでしょう。

イエスが向こう岸に渡られた動機や目的は何も書いていません。

その途中、つまり、湖上で嵐に遭遇し舟が転覆しそうになりますが、イエスのひと言、「黙れ。 静まれ。」で嵐は静まり一行は無事に対岸であるガリラヤ湖の東側にあるガラサ人の地に到着しました。

●2節「イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場からやって来た」

汚れた霊につかれた人が、イエスに近づいてきました。

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突風を静める

聖書箇所は、マルコの福音書第4章35から41節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書8章23節から27節、ルカの福音書8章22節から25節です。

●35節.その日の夕方になって、イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

イエスは、群衆に囲まれながら病人を癒し、喩えを用いて神の国のことを教え、一日中働かれました。
夕方になって疲れた身体を休めるために静かな場所を求めて、「向こう岸に渡ろう」とイエスは言われました。

●36節.そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。

イエスは群衆にもまれるのを避けて、舟の中から教えておられましたので、弟子たちもその舟に乗り込んでそのまま沖へ漕ぎ出しました。

●37節.激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

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2018年2月 8日 (木)

「ともし火」と「秤」のたとえ

聖書箇所は、マルコの福音書第4章21節から25節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第8章16節から18節です。

マルコの福音書4章
●21節.また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。

●22節.隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

「升」というのは本来穀物を量る器ですが、このともし火のたとえ話では、部屋に窓などがなく排気が悪ければ、そのままでランプを吹き消すといやな煙や匂いがしますので、「升」をかぶせて煙や匂いが漏れないようにしてランプの火を消すために使ったと言うことです。

このたとえ話は、共観福音書では少しずつ違った用いられ方をしています。

マタイの福音書は、山上の説教の中の「地の塩、世の光」のたとえ話の箇所に、弟子たちに世の光になりなさいという教訓の形で置いています(マタイの福音書第5章13節から16節)。

ルカの福音書もこのたとえ話を、「体のともし火は目」(ルカの福音書第11章33節から36節)の箇所に、弟子たちの中にある光(ともし火)が消えないように警告する形で置いています。

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「からし種」と「パン種」のたとえ

聖書箇所は、マルコの福音書第4章30から32節です。

共観福音書の並行個所はマタイの福音書第13章31から32節/ルカの福音書第13章18から19節 です。 
マルコの福音書4章

●30節.さらに、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

●31節.それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、

●32節.蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

この「からし種」と「パン種」のたとえ話は、群衆に向かって語られています。

マタイも「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった」(13章34節)と明言しています。

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2018年2月 7日 (水)

「成長する種」のたとえ

聖書箇所は、マルコの福音書第4章26節~29節です。このたとえ話はマルコの福音書のみです。

●26節.また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、

●27節.夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。

●28節.土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

●29節.実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

種をまくと成長して木になります。もちろん、苗木を植えても水さえやっていれば大きくなります。

人間は水やりに世話をするだけですが、神がその木を成長させて下さるのです。

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たとえを用いて話す理由

聖書箇所は、マルコの福音書第4章10節から13節です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書13章10節から17節、ルカの福音書8章9節から10節です。

マルコの福音書第4章
●10節.「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。」

群衆は去り、後には十二人の弟子たちとその弟子たちの周りにいた一部の人たちだけが残りました。

日頃からイエスはたとえを用いて神の国のことを語られていました。

そこで、弟子たちはイエスにその理由を尋ねました。

前にも書きましたが、イエスがたとえで語るのは、その内容がこの世のことではなくわたしたちにとっては未知の世界である神の国のことだからです。

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2018年2月 5日 (月)

「種をまく人」のたとえ

聖書箇所は、マルコの福音書第4章1節から9節 です。

共観福音書の並行個所は、マタイの福音書第13章1節から9節 、ルカの福音書第5章1節から3節/同8章4節から8節です。

マルコの福音書に沿って読んでみたいと思います。
●1節.イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。

再びおびただしい群集がイエスの周りに集まってきました。

状況からみて群衆がイエスに近づこうとするのは、イエスの体に触ることによって病気をいやしていただくためであると思います。

イエスは、準備していた小舟に乗っておられるので触ることはできません。

こうして、イエスが舟に乗られたのは群衆にもまれることを避けるためでもあるでしょうが、群衆から少し離れて話しかけた方が全体によく聞こえるのは確かです。

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「種を蒔く人」のたとえの説明

聖書箇所は、マルコの福音書第4章13節~20節です。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第8章11節~15節、マタイの福音書第13章18~23節です。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。

マルコの福音書第4章
●13節.また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

ここが指しているたとえと言うのは、マルコの福音書第4章1節~9節にある「種を蒔く人」のたとえのことでしょう。
イエスが言おうとすることは、このたとえの真理を理解すれば、他のたとえの理解ができる、ということだと思います。

●14節.種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

●15節.道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

●16節.石だらけの所に、では、蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、

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手の萎えた人を癒す

聖書箇所は、マルコの福音書第3章1節から6節/マタイの福音書第12章9節から14節/ルカの福音書第6章6節から11節です。

共観福音書のこの個所の内容はあまり違わないので、マルコの福音書を読んでみたいと思います。

この箇所は、安息日が主題ですから、まず旧約聖書の安息日の規定を書きます。

創世記第2章3節「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

出エジプト記第20章8節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

出エジプト記 第20章10節「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」

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