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2018年1月 3日 (水)

エルサレムのために嘆く(マタイ23章)

今回は、マタイの福音書23章37節から39節を読みたいと思います。

共観福音書の並行個所は、ルカの福音書13章34節から35節です。

マタイの福音書23章
●37節.「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

並行箇所のルカの福音書13章によると、エルサレムに向かう旅の途上でイエスはエルサレムのことを嘆かれたことになっていますから、いよいよ十字架の時を前にイエスはイスラエルの過去と現状を思い嘆かれたのでしょう。

マタイはイスラエル人あてにこの福音書を書いていますので、イスラエルを間違った道に導いた律法学者とかファリサイ派に対し非常に厳しい見方をしています。

この後に続く、24章の「神殿の崩壊を予告する」などもそうですが、これなどはもう救いをもたらされたイエスの言葉と言うよりも、イスラエルの歴史の中でご自分の民に働きかけ続けてこられた主なる神の言葉といえます。

であるから、37節のイエスの言葉は、イスラエルに働かれた神の立場でイエスはイスラエルを嘆かれていますから、まさしく神とイエスは一体だと言えます。

「預言者たち」と「自分(エルサレム)に遣わされた人々」は、同じ人たちを指していると思います。

預言者は、神からイスラエルに遣わされて神の言葉を伝えた人々ですが、神は預言者を何度もエルサレムに遣わし、最後に御子イエスを遣わされ、語り、エルサレムに悔い改めを迫りましたが、エルサレムは彼らを拒否して、「石で打ち殺す者」、つまり、神から遣わされた預言者をことごとく殺してしまったのです。

このようにして神を拒否したエルサレムは、神から拒否されて滅びざるをえないのです。

イエスはエルサレムが滅びるのを嘆かれますが、その思いに重なって神の霊が神の思いをイエスの口を通して語り出します。(神とイエスが一体というのはそういうことでしょう。)

「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」、このイエスのエルサレムに対する嘆きの言葉は、エルサレムに対して滅びを定めざるをえない神の嘆きの言葉であり、イエスの嘆きの言葉でもあると言えます。

「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」とあるのは、神は神に従った神の民をめん鳥が雛を羽の下に集めるように守り育てると言うことだと思います。

「お前の子ら」というのはエルサレムを指すと思うのですが、調べてみると、イスラエルの民を代表する呼び名だと言うことです。

イエスは、終わりの日に神から最後に遣わされた自分を殺そうとしているエルサレムの滅びが避けられないことを思い、その滅びを予告されます。

●38節.見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。

「家」というのは、エルサレムのことですから、今やエルサレムは、最後に遣わされた御子を殺すことによって、「見捨てられて荒れ果てる」のです。

この預言は紀元70年ユダヤ戦争でエルサレムが崩壊することによって実現します。イエス十字架から40年後のことです。

●39節.言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

そして、律法学者に代表されるユダヤ教は、「主の名によって来る方」イエス・キリストを心から受け入れるまでは、「わたしを見ることはない」と見放されるのです。

まさにイスラエルにとっては厳しい預言です。

イエスは神と一体であり預言者以上の方です。必ずそのようになるのでしょう。

バビロンによってエルサレムが破壊されるとき、その前に多くの預言者を遣わして警告し、悔い改めを呼びかけられた神が、さらにエルサレムの破滅(紀元70年)という決定的な神の裁断を受けて、そのまま放置されることは決してありません。

●35節.見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

「お前たちの家」は、神殿に限定されず、エルサレム全体を指していると思います。

「お前たちの家は見捨てられる。」の意味は、おそらく、イスラエルは異教徒が蹂躙するにまかされるという預言でしょう。

これは、ユダヤ教徒にとって衝撃的な預言です。

そいて、「お前たちは・・決してわたしを見ることがない」という言葉が続いています。

言葉通りに読みますと、エルサレムが滅亡した後、イスラエルはイエスを見ることはないという預言になります。

そして、それは「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、」ということですから、イスラエルが再びイエスを見る時が来ることも預言されているのでしょう。

『主の名によって来られる方』というのは、もちろんイエスですから、此処の聖句はイエスの再臨を預言していることになります。

そう、イスラエルは再びイエスを見て、その時には「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、歓呼してイエスを迎える(異邦人である諸国民と共に)ことになると預言されたのです。

これが有名なキリストの再臨の預言です。

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