イエスの母、兄弟(マルコ3章)
今回はマルコの福音書第3章31節から35節を読みます。
共観福音書の並行個所は、マタイの福音書12章46節から50節。ルカの福音書8章19節から21節です。
本題に入る前に、参考になる箇所がマルコにありますので、マルコの福音書3章20節から21節を読んでみます。
●20節.「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。」
凄いことになりました。民衆は心も体も病んでいたのでしょう。
イエスも弟子も群衆の対応に追われて食事もできなかったのでしょう。
●21節.「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
イエスに対する世間の噂は、「あの男は気が変になっている」ということでした。
イエスの身内がその噂を聞いて、イエスを取り押さえに出て来たのです。
民衆に非常に人気があるのに、なぜ、「あの男は気が変になっている」という噂が出るのでしょう。
それに、身内の者が取り抑えにくるとはどういうことでしょうか。
考えられることは、いくら善いことでも、立場により人それぞれ受け止め方が違うと言うことだと思います。
同じことをしていても、賛成する人もおれば反対する人もいる。
つまり、病を癒してほしい人にとっては、藁にもすがりたい気持ちですから救い主です。
そうでない人にとっては、イエスの人気を妬ましく、あるいは、自分の権威が失意する思った人々もいたでしょう。
イエスのなされた想像を絶する出来事を眼の前に見て、否定もできないので、そういう人はイエスを気違い扱いしたと思います。
なお、マルコの福音書第3章22節には「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」とありますから、想像を絶する出来事を前にして、当時のことですから、イエスがなされたことを悪霊の仕業にしたのでしょう。
そのような噂が世間に広まれば、家族も気が気ではないでしょう。
ましてや、イエスを気違い扱いする人も出てきたから、身内の者たちもトラブルに巻き込まれることを恐れてイエスを取り押さえに来たのだと思います。
人間は到底かなわぬ相手に対しては、屈服するか気違い扱いにしてしまうほかないのです。
一つ付け加えるならば、イエスは家族にこのように疎んじられていましたが、イエス復活の出来事があってから後、母マリアと弟のヤコブは、イエスを信じ原始教会で大きな働きをしました。
そのことからも、イエス復活の衝撃は人間としてのイエスを最もよく知っている家族をも変えてしまうほど大きかったことが分かります。
もちろん、家族の変身はイエスの復活が事実であったことの証でもあります。
マリアはイエス誕生に何らかの不思議な出来事があったでしょうから、イエスが普通の子供ではないことをよく知っていたともいます。
だからのちにイエスの処女降誕の物語が生まれたのだと思います。
しかし、弟のヤコブはイエスの出来事はにわかには信じることはできなかったでしょう。
それでは本題です。
マルコの福音書第3章
●31節.イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
●32節.大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
家族はイエスを家の外に呼び出して話をしょうとしていたのでしょうか。
それとも、家に連れ戻して外に出ないようにしょうと思っていたのでしょうか。
どちらにしても、状況から判断して家族は相当切羽詰まっていたのは確かです。
イエスは世間の人々からは気違い扱いにされ、宗教的権威者たちからは悪魔扱いにされ、身内の者たちからは迷惑者扱いにされていたからです。
イエスは、母や兄弟たちからも理解されず、ただ一人、ご自身の中に来ている神の御霊の導きに忠実に歩んでおられるのです。
母上と兄弟姉妹たちが、イエスの宣教の邪魔をしているのです。
イエスは他の箇所で、「自分の家族の者が敵となる。」(マタイの福音書第10章36節)と言われました。
このイエスの言葉は、家族は最も絆の深い親しい関係であるはずが、それが逆に働くと言われているのです。
イエスは、「肉から生まれたものは肉である。」(ヨハネの福音書第3章6節)とも言われました。
「肉」とは、わたしたちの生まれ持っている一切のしがらみをいうのですが、そのしがらみの最たる父母との関係については、神はモーセに「あなたの父母を敬え」という律法を与えています。
それに、わたしたちはその「肉」の関係の中で生まれ育ち生きていますので、ある意味それを捨てることは容易ではありません。
しかし、家族関係は「肉」であり、本質的に福音に敵対するとイエスは言われているのです。
●33節.イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
●34節.周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
33節でイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」、と問いかけられて、ここで神を信じ、神の御心を行う人たちの間の絆を定義されています。
その関係は、祈り合い、助け合う絆、キリストの愛に包まれた絆です。
キリストという価値観を共有している者同士の絆です。
イエスは自分を信じて救いを求めている人々を指して、34節の言葉を発せられました。
●35節.神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
イエスはこの節で、「神の御心を行う人」のキリストの愛に包まれた絆で結ばれた家族をわたしの母、兄弟だと定義されています。
その家族の人たちは、生まれながら持っている古い自己を捨てて(この世の家族関係も含まれる)、ひたすら神を信じ神の恩恵に身を委ねて生きている者たちのことです。そういう家族を神の家族とも言っています。
そのような者たちこそイエスを長兄とする神の家族の一員として、神の生命に生きる者となるということでしょう。
その共同体が、イエスを信じる者の集まりであり共同体であり、キリスト教会でもあるわけです。
このように書きますと、この世の家族関係を無視する、軽く見ているように受け取れますが、これをどのように考えればよいのでしょうか。
イエスは、親を無視してもかまわないと教えたのかと言えば、そうではないと思うのです。
旧約聖書の十戒には「あなたの父と母とを敬え」とあります。
イエスはこのモーセの言葉を取り上げて、親を粗末に扱う人たちを厳しく批判しておられる個所もあります(マルコの福音書第7章9~13節)。
また、このような聖句もあります。
マルコの福音書10章29節・30節でイエスは言われています。
「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」です。
イエスのために親兄弟を捨てるなら、必ずその家族の「100倍の家族が報われる」のです。
捨てたものが100倍になって戻って来るのです。
それでも疑問が残ります。
それは、この世で捨てた家族が後の世で100倍になって帰ってくるのか、それとも、この世の家族とは別に、後の世で100倍もの新しい家族が与えられと言う意味なのか、どちらなのでしょうか。
この聖句だけではよくわかりません。
もちろん、この100倍という数字は大勢の人を表す象徴だと思います。
それに、別の個所でイエスは、後の世では、マタイの福音書第22章30節によれば、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と言っておられますから、やはり後の世の家族は霊の家族でしょう。
しかし、捨てたこの世の家族も後の世では祝福されて「永遠の命」を受けることが出来るのですからこれは大きな祝福です。
ということは、後の世では、地上の家族も祝福されて、この世の家族をも含めてさらに大きな家族、霊の家族が与えられるということになります。
つまり、神の家族が与えられるのだということでしょう。
弟子に捨てられたこの世の家族は、この地上でイエスの言葉を信じないで死んでも(イエスの言葉を信じたとは書いていない)永遠の命を与えられるのですから、いろいろ異論は有りますが、後の世でも救われるチャンスがあるとわたしは信じたいのです。
わたしが全員救済、いや、普通の人はほとんど救われることを信じる根拠の一つでもあります。
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