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2018年1月30日 (火)

続・イエスの母、兄弟(マルコ3章)

先に投稿した、「イエスの母、兄弟」についてもう少し書いてみたいと思います。

本当の母、兄弟はイエスの言葉を信じる者の集まり、それが神の家族であり、真の家族とイエスは定義されました。

マタイの福音書第18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあるとおりです。

それは、どういう関係かというと、人のために祈り、困っている人を助け、喜ぶものと喜び、悲しむものと悲しむそういう関係の中に本当の絆が生まれるということでしょう。

神の家族の集まりの場は、「天の父の御心を行う」者の集まりです。

そこでは、旧約聖書のモーセ律法の完全な順守ではなく、イエスがそうであったように、父なる神の恩恵に委ねきった在り方が絆となる集まりと言うことでしょう。

そのような父の御心に適った生き方をする者の集まりが、イエスを長兄とする神の家族と言うことだと思います。
一般にそういう家族を霊の家族とも言われています。

したがって、わたしたちが生まれ持ってつながりを持っている家族とか民族という血縁関係は、神の家族となるのに何のかかわりもないということになります。

イエスの言葉を信じる者の共同体に神の国が来ているのです。

神の家族の中に生まれるためには、血縁関係をはじめ一切の生まれ持った人間的な関わりは何の役にも立たないのです。

一人一人が自分の全存在をかけて、イエス・キリストにおいて最終的に啓示された神の御心に従うことだけが求められます。

キリストを信じて神の御霊、聖霊を受け、聖霊によって新たに生まれる者が、「血すじによらず、ただ神によって生まれた」者として、神の家族の中で、イエスの兄弟、姉妹、また母として生きることになるのでしょう。

もちろん、古い肉の自己を捨て新しい命に生きるためには、それは人間の能力とか努力でできるものではなく、イエスの言葉を信じ、心に留めて、約束された聖霊を受け、その聖霊の働きに委ねることにより成就するものなのです。

なお、この箇所で言っていることは、結論として神と親子関係、肉親関係のどちらを選ぶかという問題になりますが、ここで素朴な疑問をひとつ取り上げてみたいと思います。

イエスの時代のイスラエルは、モーセの十戒にある通り、神を敬うことと父母を敬うこと、これがユダヤ人の生き方の基本とされていました。

通常わたしたちも洋の東西を問わず親子関係というものは、人間関係の中で、最も基本的なもの、大切なこととされてきました。

この認識は、誰も意義のないところでしょう。

ところがイエスは、「わたしよりも父母を愛するものはわたしにふさわしくない」と言われたのです。

当時のユダヤの指導者たちはこのようなイエスの言葉を受け入れるには大いに抵抗があったのです。わたしたちも同じです。

でも、イエスは、神と肉親と、どちらを選ぶべきなのかをはっきりと問われています。

マルコの福音書では、イエスの母と兄弟たちが、イエスの気が変になったと誤解して「取り押さえ」に来たとあります。

こうして見ると、神が定めたモーセ律法とイエスの教えが矛盾するのは明らかです。わたしたちの親子の情愛とも矛盾します。

親子の情愛は、神がわたしたちに生まれ持って備えられたものではなかったのでしょうか。

それに、イエスは本当に生まれ持った肉の関係にある親兄弟を捨てろと言われたのでしょうか。どうもわたしにはその様に思えないのです。

イエスはモーセ律法を廃止ではなく成就するためにわたしはきた、と言われました。

その「成就」というところに注目してみたいと思います。

わたしは「肉の家族」と「霊の家族」は、優劣関係にあるのではないかと思うのです。

そして、たとえ一時的に肉の家族を捨てるようなことになっても、やがてその肉の家族が霊の家族として生まれ変わる、そのように考えたいと思うのです。

決して、イエスは肉の家族を捨てられたのではないと思うのです。

そのように言われたのは、イエスを信じて、イエスの言葉を伝えるためにこの世を生きる者は、家族が足かせになるから捨てろと言われたのではないでしょうか。

迫害が家族にも及んだでしょう。家族は世間体を考えて、信徒の足を引っ張るでしょう。信徒は家族の日常生活上の問題を抱えることもあるでしょう。

そのようなことに煩わせられていては、伝道という本来の仕事がおろそかにもなります。障害にもなります。

律法の成就という面からみれば、イエスの新しい教えは、古い肉の家族関係を定める旧約聖書のモーセ律法を、その肉の家族を霊の家族に生まれ変わらせることによって成就するということではないでしょうか。

先に選ばれ救われた者は、古い肉の家族を生まれ変わらせるために選ばれたのです。

そう言う意味から、わたしは全ての人が最終的に救いに与るものと信じています。

調べてみますと、元々、ヘブライの人たちの考え方には、あるものを捨てたり否定たりして、ほかのものを採ったり肯定したりするという考え方をしないそうです。

どちらを「より多く愛するか」、あるいは、どちらを「より大事にするか」というよう に比較して考えるそうです。

そして、「より多く愛さない」場合を「憎む」と言い、「より大切だと思わなかった」ほうを「捨てる」と表現するそうです。

だから、イエスは親を捨てなさいと教えたのではないと思うのです。

親兄弟よりも神を選んだために、肉の家族を失うのかというと、そうはならないのですね。

マタイの福音書第19章30節にこのような御言葉があります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」です。

あくまで後先の問題です。

ここで注目したいのは、切り捨てられる者、つまり、地獄へ行く者がいるとは書いていません。

これは人の運命の逆転を語る当時の格言であったということです。

この格言をイエスは神の国の一面を語るのに用いられたのでしょう。

神の国には、人間的な評価では最も先に入ると見られる者ではなく、最後になると見られている者が先に神の国に入るのであるということだと思います。

イスラエルではなく異邦人が(ルカの福音書13章28節から30節)先に神の国に入るのとおなじように、「主のためにすべてを捨てた者」が報いとして先に神の国に入るのです。

そして、最終的には普通のほとんどの人は神の国に入るのだと思います。

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