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2018年1月20日 (土)

重い皮膚病患者の癒やし(マルコ1章)

聖書箇所は、マルコの福音書第1章40節から45節/マタイの福音書第8章1節から4節/ルカの福音書第5章12節から16節です。

マルコの福音書第1章を読みます。
●40節.さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところへ来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

●41節.イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、

●42節.たちまちらい病は去り、その人は清くなった。

●43節.イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、

●44節.言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」

●45節.しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。

それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

共観福音書のこの個所の内容はあまり違わないので、マルコの福音書を中心に読んでみたいと思います。

ここで言う「重い皮膚病」とは、ハンセン病のことだと思いますが、一般的には重い病を指しているのでしょう。
さまざまな皮膚の湿疹その他の病気をも含んでいるのかも知れません。

とにかく、進行性の重症の皮膚病、しかも、それは形崩れを伴う皮膚病のことで、当時は汚れた病とされていました。

そして、神による罰、神によって打たれた者で、不治の病とされていました。

その人たちは、一般社会から隔離された所に住み、普通の人と交わることはもちろん、近づくことさえ許されていませんでした。

それに、その人たちは、自ら「汚れた者、汚れた者」と叫んで、その存在を知らせなければならなかったということです。

人に触れることは禁じられ、人との交わりも禁じられて社会からは完全に隔離されていました。死人と同様に見なされていたのでしょう。

ですから、この病気が癒やされることは、死人を甦らせることと同様の意味を持っていたということでしょう。

したがって、神だけがこの病を清めることができるとされ、また、この病人の清めはメシヤ(救い主)がもたらす終末的な祝福の一つとされていました。

マルコ1章40節に「イエスのところにきてひざまずいて・・」、とありますが、これは、ユダヤ教の律法の中で生きる人が律法でないイエスの新しい教えの前にひざまずいたことになります。

医者にも、律法(ユダヤ社会)にも見放されて、癒されたい、現状から救われたいという切なる願いが律法の垣根を乗り越えて、新しい教えを持って来たイエスに、一縷の望みをかけて、イエスの前にひれ伏したのです。

重い皮膚病患者は、癒されたい一心で、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言ったのです。

そこには、イエスへのすがるような信頼と、己のすべてを捨てた叫びがあります。

イエスの中に働く神の力だけに頼り、自分の人生のすべてを「御心のままに」と言ってイエスの意志に委ねたのです。

マルコ1章41節に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、・・」、とありますが、このようにイエスはその余りにも悲しい姿に憐れみ、病人に触れられたのでしょう。

このような病人には汚れると言うことで触れてはならなかったのですが、イエスは躊躇なく、汚れなど一向に気にせず病人に触れて、ただ社会から疎外され、治癒の見込みもない絶望的な病人への憐れみから、その人に手を差し伸べ、ご自身の中にある神の力を注ぎ癒されたのでしょう。

「よろしい、清くなれ」、の一言で癒されたのです。

神の言葉には神の思いがこもっています。その思いが力となって現実は従うということでしょう。

43節と44節でイエスは「厳しく注意して」、「誰にもなにも話さないように」、と言われました。

このような病人を癒すことは、神によって癒された事を意味するので、ユダヤ教社会ではどのように受け取られるかをイエスは知っておられたのでしょう。

余りにも憐れゆえ病を癒されたが、イエスはメシヤ(救い主)であることを自称する者であると見られることを極力避けようとされそのように言われたのだと思います。

なぜなら、まだその時期ではないからなのだと思います。

もちろん、その時期と言うのは、十字架の時ことです。

そして、ユダヤ教律法で定められたイスラエルの共同体の中に入るための儀式である、「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」と言われたのです。

共同体に戻るには、祭司の清められたと言う宣言が必要だったのでしょう。

当時、そのような病は人間には治癒が不可能でありましたので、その律法の儀式は、神によっていやされたときのために設けられていました。

イエスは病人の社会復帰を促すために、旧約聖書レビ記14章の「清めの儀式」を受けるように勧められたのです。イエスは病人の社会復帰にまで気を使っておられます。

その人はイエスの厳しい忠告にも関わらず、「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」(マルコの福音書第1章45節)ので、「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。」(マルコの福音書第1章45節)と言うことになりました。

イエスが厳しく、誰にも話さないように忠告されたにもかかわらず、この病人は神の力を体験し、癒された喜びのあまり、自分の身に起こった事を語らないではおれなかったのでしょう。

そのためにイエスは大変な迷惑をこうむります。

なぜなら、病人が癒やされたことを言い広めたので、ユダヤ教当局からイエスはメシヤを自称して民衆を扇動する者ではないかと疑われるようになり、そのために、会堂で公に宣教することができなくなり、町の外の寂しい所で教えるようになったからです。

これまでは諸会堂で宣教されておられたのに、これ以後は会堂での宣教はごく僅かになり、おもに海辺や、家の中、山辺や旅路で語られることになるのです。

さらに、イエスが行かれる所にはいつも律法学者たちがいて、イエスの言動を監視し、批判し、律法違反の証言を得るために論争を仕掛けるようになるのです。

現在でも病の癒しを売り物にしている新興宗教が多いと聞きます。

わたしには、新興宗教のことはよくわかりませんが、聖書でも、癒しの祈りをしますが、その結果はあくまで神の御心のままになされるように祈ります。

癒しのみ業は、神が行なわれるのであって、わたしたち人間の念力や祈祷の力ではないのです。

そして、なにより神が癒やされると言うことは、罪が赦されていると言うことだと思います。

だから癒されることは、罪が赦され、救われたことのしるしだと思うのです。

キリスト教界でも、病気の癒しをされる牧師さんや宣教師さん、それに一般信徒さんもおられます。

しかし、癒やしは誰でも行なうことができるのではなく、そのような癒しの賜物を与えられていることが必要だと思います。

祈っても、結果はわかりません。どのようにされるかは、神の御心のままにです。

神を信じる信仰が先で、癒しは結果です。
誰が祈っても、癒やされない場合も、癒される場合もあります。

新興宗教は、癒された(?)場面を見せて信者を増やすと聞きますので、キリスト教とは全く違います。

癒しがすぐには現われない場合もあります。癒される場合でも神の時期があると言うことです。神の時というのは、その人にとって最善の時といういみです。

そして、キリスト者は、たとえどのような結果になっても、信仰は変わりません。

たとえ、癒やされなくても、霊的に心が救われる(信仰を持っていない人は、それは心の持ちよう、物は考えようだと言う人もいます)場合もあります。

霊的な心の救いは、体の癒やしに優ると思います。

わたしには癒しの経験は有りませんが、体験者の話を聞くと、霊的に心が救われた場合でも、与えられる心の平安と喜びは、心の持ちようなどと言って済ませられるほど簡単なものではないということです。

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