断食についての問答(マルコ2章)
聖書箇所は、マルコの福音書第2章第18から22節、マタイの福音書9章143節から17節、ルカの福音書5章33節から39節です。
マルコの福音書を読んでいきます。
●18節.ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
●19節.イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
●20節.しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
●21節.だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
●22節.また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
この記事は、イエスの十二弟子の一人であるマタイの家で婚礼のお祝いの宴会が開かれて、罪人や徴税人が招かれたのですが、そのときの出来事を記した場面でしょう。
ここでの罪人というには、社会的被差別者、社会的弱者の人々を指していると思います。
なぜなら、当時律法を守る人が正しい人で守れない人が罪人であったのですが、通常そういう人は律法を守りたくても守れない人々であったのです。
徴税人とは、ローマ帝国のために税金を徴収する人です。
当時は税率も報酬も決まっていなかったので税金を誤魔化して自分のものにする徴税人が多かったようです。
ユダヤ人から見れば徴税人はローマの手先であり、社会的に被差別者です。
そして、ローマ人は異邦人で汚れた人たちです。
18節でユダヤ教ファリサイ派の人々がイエスに対し弟子が断食しなかったことについて、批判(詰問)しています。
18節によると、その批判した人の中に洗礼者ヨハネの弟子も含まれていたようです。
洗礼者ヨハネの弟子はイエスのことをヨハネから聞いてよく知っていたはずですが、それでもイエスの弟子が断食しなかった意味は理解できなかったのでしょう。
ユダヤ教にはいろいろと派がありましたが、その主張するところは異なっていても、律法に対する忠誠と熱意はみな共通であったと思います。
だから、イエスの弟子たちだけが断食をしなかったのはきわめて特異なことであったのでしょう。
「断食」はユダヤ教の宗教的祭儀の一部で、神に対する贖罪とか痛恨の表現として行われていました。
古代の諸民族の間でも広く行われていた習慣であると思います。
18節のイエスに対する詰問は、答え方によってはイエスを律法を汚す異端者として告発しようとしていたのでしょう。
それに対してイエスは、誰もが反論できない、逆に問いかける形で答えられます。
その内容は、イエスが現在ここにいると言うことは、救い主が現れると言う終末の時代が到来していることだと言われます。
すなわち、わたしはあなた達が待ち望んでいた救い主だと言われたのです。
19節でイエスは御自分のことを花婿にたとえ、弟子たちを婚礼の客に譬えています。
イエスは弟子たちが断食しない理由として、彼らは今花婿と一緒にいるから(断食は必要がない)のだと言っておられます。
これは、神が終わりの日に救いの業を成し遂げて民との交わりを回復される時のことをここではっきりと、婚礼のたとえをもって、今や花婿(イエス)が到着し、喜びの婚礼が始まっているのだ、お祝いの席で断食は必要ない、と宣言されたのだと思います。
今あなたたちが長い間望んでいた終末の時が来たのです。
それは、イスラエルの歴史が予言を待ち望んでいた時であり、神が人と共にいてくださる大いなる喜びの日がついに到来したと言われたのです。
アダムの時に始まった神と人間の断絶が、神の一方的な恵みにより和解する時が来たのです。
人間同士の婚礼でも祝いの時は断食などしないことを喩えに、まして救い主として到来した花婿であるイエスと一緒にいるのにどうして断食をすることができようか、ということでしょう。
イエスは婚礼の客の譬で、弟子たちが断食しない理由を救いが到来した喜びの場でなぜ断食する必要があるのかと問われたのでしょう。
20節の「花婿が取り去られる」というのは、イエスの十字架の死を指していると思います。
「その日には、彼らは断食する」というのは、イエスの十字架死を古い自分の死として認める者は、そのことによって律法による断食を成就することになると言われたのでしょう。
この「断食を成就する」というのは、断食は旧約聖書の律法の定めで、神への贖罪と痛恨からなされるものですが、それは生まれながらの命に生きる古い自分だから必要なので、イエスの十字架の死に倣って古い自分に死に新しい命に生きる者には必要がないと言われているのでしょう。
平たく言えば、イエスの死の意味を認め信じる者はイエスと共に死に罪は贖われたのだから、神との関係は回復し、もう贖罪とか痛恨のための断食は必要が無くなったのだ、ということでしょう。
21節の「誰も織りたての布から布切れを取って、・・」、22節の「だれも、新しいぶどう酒を旧い革袋にいれたりはしない。」の意味は、まださらしていない新しい布は硬くて縮みやすいので、それを継ぎ布として古い着物に縫いつけると、永年使用されてもろくなっている古い布を縫い目で引き裂き、かえって破れが大きくなると言われたのでしょう。
これは生活の知恵から生まれた格言でしょう。
また、新しい葡萄酒はまだ発酵を続けておりガスを出しているので、そのような葡萄酒を、弾力を失い硬化している古い皮袋に入れると、ガスの圧力で皮袋が破裂することがあります。
だから、新しい葡萄酒は弾力性がある新しい皮袋に入れなければならないとも言えます。
これも水や葡萄酒を羊の皮で造った袋に入れて遊牧した民の生活から生まれた知恵であり格言でしょう。
それらの格言を用いてイエスは誰にでも分かるように語られたのでしょう。
イエスがこの世に来たと言うことは、神の支配の時が到来したことです。
それは人々にはまだわからないがイエスの中にはすでに到来しているのです。このような事態は、イスラエルの律法と言う古い枠(革袋)に入れることはできないのです。
イエスが用意した新しい生命に生きる者はその命にふさわしい新しい枠(革袋)の中で生きることが必要だと言うことだと思います。
その生き方が、パウロが言う「わたしたちは、自分を縛っていた律法に対し死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ローマ書第7章6節)ということだと思います。
だから弟子たちは断食しないし、今を生きるわたしたちも断食しなくてもよいのです。
見方を変えれば、イエスは、新しい働きは、古い制度や組織から離れて行われるものだと言われているのでしょう。
古い制度や組織に新しい働きを入れようとしても、その働きがだめになってしまうだけでなく、古いものもだめにする。
したがって、新しいところにあって初めて新しい働きが始められるということでしょう。新しい時代は革命によって到来するのです。
ユダヤ教の枠組みの中で悔い改めを説いて神に立ち返らせようとしても、それは失敗します。
そこに必要とされているのは、柔軟性であり、状況に応じた対応であり、開かれた心であるということでしょう。
マタイの福音書第18章3節「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言うことでしょう。
ユダヤ教は古い革袋です。いま、イエスがこの世に来て新しい生き方が求めておられるのです。
新しい生き方は、イエスの教える新しい革袋に生きる必要があると言われています。
「最後の預言者」と言われた洗礼者ヨハネは、終末の裁きに備えて罪を悔い改めるように教えたのですが、イエスは、現在すでに自分の中に神の力が働いて、今この時に罪の赦しが実現しょうとしていることを証しされたのです。
その罪の赦しは絶対無条件で、旧約聖書の律法に定めるように、行いは一切求められないで、ただイエスの言葉を信じるだけで神からの離反した罪は赦されるのです。
共観福音書を比べてみますと、マタイの福音書では、9章17節で、「・・そうすれば、両方とも長もちする。」とあって、ユダヤ教と新しいイエスの教えとの調和を求めています。
これに対して、マルコの福音書では2章22節で、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」と割り切っています。
ルカの福音書では5章39節で、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。」と言って、旧約聖書の律法に定める、古い教えである断食とか割礼にこだわって、イエスの新しい教えを受け入れないイスラエルの人々のことを批判しています。
現在でもキリスト教界には多くの宗派があります。
何とかならないかと思うのですが、その理由を考えますと、各宗派ともイエスを信じたら罪が赦されるという点では一致していると思うのですが、やはり、個人の自由意志が尊重される多様性社会である現在社会では、聖霊による新しい人間創造の働き(新しい革袋に生きる)は、人間に与えられた自由意思というか人格を尊重しながら、ゆっくりと進めるべきものだから、このような現象が起こっているのかと思うのです。
新しい人間創造の働きは、おそらく少しずつ進行するもので、そうすると過渡期には古いものと新しいもの、各宗派、各教会を指すと考えてもよいのですが、とが混在することになります。
そうすれば、時には衝突もし、そこに様々な問題が生じるのは避けられないと思うのです。
個人の自由意志を尊重したうえで、新しい聖霊の働きを古い革袋に、古いやり方に無理に合わせようとすると、訳が分からなくなります。
両者が混じり合うところはどうしても軋轢を生まれます。
如何でしょうか。ですからそういう事態に直面しても、決して無理をしないで聖霊の働きに委ねると言うことが必要なのかもしれません。
それこそ、時が解決するということでしょう。
全ては神のみ心のうちでなされていることですからね。
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