湖の岸辺の群衆(マルコ3章)
聖書箇所は、マルコの福音書第3章7~12節で、マルコ単独の記事です。
●7節.イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ
「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立去られた・・・」ですが、イエスが会堂で安息日に癒しの業(マルコの福音書第3章1節から6節の「手の萎えた人をいやす」を参照)をされたことによって、ユダヤ教からみて律法違反が明らかになったので、ユダヤ教との決裂は決定的となりました。
ユダヤ教と決裂するということは、その社会の現体制と対立することになり、イスラエルは宗教国家ですから社会から疎外されることになります。
ユダヤ教を代表する者たちの殺意を感じられたイエスは、彼らが支配する会堂を去り、弟子たちをつれてガリラヤ湖の岸辺に退かれました。
この時以後、故郷ナザレのユダヤ教会堂に入られたこと(マルコの福音書第6章2節)を除いて、イエスがユダヤ教会堂に入って教えられたことは報告されなくなります。
●8節.エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
ここでは群衆がどこから来たのかを明らかにするために地名が列挙されています。
それはイエスのもとに集まってきた人たちがユダヤ教徒だけでなく、周辺地域の異教徒も大勢いたことを示しているのでしょう。
著者はそのことを告知したくてわざわざ地名を書いたのでしょう。
「おびただしい群集が」イエスにしたがってついてきたのです。
イエスがユダヤ国家から命を狙われる立場になったのにそれをもいとわずついてきたのです。
わが身が不利になるのもいとわずにです。
ここでもイエスの神の国運動は、反対にあってもつぶれることはなく、むしろ促進されるという不思議が起こっています。
そこには、不思議は神の力が背景に働いているのでしょう。真理の力は強いとも言えます。
●9節.そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
ここでは、イエスは弟子たちに小舟を用意させています。
それは、イエスの教えの言葉もさることながら、癒しを求めて集まるすさまじい群衆の熱気による混乱を避けるためであったのでしょう。
その小舟が実際に利用されるのは4章(1節)に入ってからということになります。
●10節.イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
●11節.汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
ここでは病気の人と、悪霊(汚れた霊)にとりつかれた人々がイエスに近づいてきます。
11節の汚れた霊は、もちろんイエスと同じ霊的存在で、つまりイエスと同じ次元に住む存在ですから、イエスが神の子であることをよく知っていることを示しています。
イエスは、ご自分の本当の姿を知っている悪霊に、「言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」のです。
黙らせたとありますから、悪霊はイエスの言葉は神の言葉ですからイエスの言葉に従うしかなかったということでしょう。
ここに悪霊をも支配する神の力を示されています。
●12節.イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
父なる神の定められた時(十字架と復活の時)にはまだ時間あるということでしょう。
イエスがなされる病気の癒しと悪霊追放は神の力の結果です。
イエスが神の子であるうわさが広まりユダヤ教指導者らを刺激するのを避けられたのでしょう。
イエスの十字架のときはまだ来ていないのです。
それまでに弟子たちに(わたしたちに)告知しておくことがたくさんありましした。
この個所も、病気の癒しと悪霊追放と安息日問題の記事が中心です。
病気の癒しとか悪霊追放は、のちの世代のパウロも使徒言行録9章17節、同13章10節、同14章10節を読めば行っています。
さらに、異言が降る按手の祈りをしたり(同19 章6節)、癒しと悪霊追放を行なったり(同19章12節)。死んだと思われる人を生き返らせ(同20章10節)嵐の船の中で預言した(同27章25節)とあります。
パウロの神学は十字架と復活を出発点としていますが、パウロも、神癒や悪霊追放と教えとが一体になって活躍していることが明確です。
もちろん、それはイエス十字架後にイエスに代わってこの地上に降った聖霊がパウロと共におられたことを示しています。
このように霊の働きが盛んであったのは、二世紀の初めごろまでと聞いています。二世紀の初めごろまでは聖霊の力強い働きによってキリスト信仰共同体は、推し進められてきたのだと思います。
それ以降は、内外の事情により必要に迫られたのか、単独の監督者と、儀礼と信条を持つ組織体、つまり、今のような教会が形成されていったということです。
最近では、こういう霊的な面を避けるクリスチャンとか教会が多いと聞きます。霊的な現象をオカルトだと言って避けている牧師もおられます。
でも、聖書をよく読めば霊的な出来事は避けられないと思うのです。
第一、霊的存在である聖霊を否定してキリスト教は成立しないと思うのです。
わたしはペンテコステ派の教会で洗礼を受けましたので、そういうことには全く抵抗はありません。聖書どおりそのまま受けいれています。
悪霊の働きも病気の癒しもイエスの教えも神の御霊、聖霊がイエスに宿られ働いておられるから、初めて実現するのだと思います。
イエスの言われる、天の国の教えは、聖霊の働く神の国の世界ことでイだから御霊がこの地上で働かれているということは、イエスの御国は、神の支配はすでに始まっていることを表し、この世の終わりに、キリストが再臨されて初めてそれが成就する、完成するのだと思います。
聖書はそのように読むべきだとわたしは思っています。
今は神の支配は始まっているが神の国は完成していないのです。
だから、今を生きるクリスチャンは十字架の罪の赦しの恩恵にすがって歩むということではないでしょうか。
神の支配が始まっているから、聖霊の働きがあるから、今でもイエスの言葉を信じると本当に病気が癒され、悪霊が出ていき、異言や預言の聖霊現象が実際に起こっているのだと思います。
イエスは言われました。
マルコの福音書 第10章27節「イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
これは山上の教えは、人には実行できないけれども、神にできると言われたのです。
そう、神が「人間ができる」 ようにすることが「できる」といわれたのです。
そのためにまずわたしたちがすべきことは、イエスの言葉を信じて、心に留めなければならないのです。
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