十二人を選ぶ(マルコ3章)
聖書箇所は、マルコの福音書第3章13節から19節/同6章7節から11節 、マタイの福音書10章1節から4節、ルカの福音書6章12節から16節です。
マルコの福音書第3章
●13節.イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
●14節.そこで、12人を任命し、彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
●15節.悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
●16節.シモンにはペトロという名を付けられた。
●17節.ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
●18節.アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
●19。それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
マルコの福音書第6章
●7節.そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
●8節.旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
●9節.ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
●10節.また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、、その家にとどまりなさい。
●11節.しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
●12節.12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
●13節.そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
イエスはここで十二人の弟子を選び伝道のために派遣されますが、この「十二人」は後に「使徒」と呼ばれる特別の地位を占めるようになります。
さて、イエスは、ルカの福音書第6章12節によれば、12人を選ぶ前に「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあります。
イエスが祈って夜を明かされる場合は、重要なことをされる時です。
今回も、マルコの福音書第3章13節・14節によれば、山に上って十二人の弟子を選任されますので、そのことがいかに重要かを示しています。
それも、イエスが「これと思う人々を呼び寄せられると」とあります。
その目的は、14節と15節によれば、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあります。
つまり、十二人はイエス自身の意思で重大な目的を持って選ばれたのです。
イエスは十二人を、なにも弟子が増えてきたので弟子をまとめるために役職につけようとして選ばれたのではなく、新しい使命を担わせるために選ばれたのです。
14節では、「自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ・・」とあります。
イエスに選ばれた十二人の使命の一つは、「そばに置く」と言うことですから、いつも一緒におらせて、寝食を共にして、イエスのなされる業と言葉の目撃証人とするためだと言うことでしょう。
もちろん、これはイエス御自身が地上からいなくなった後のことを考えて備えられたのでしょう。
具体的には、イエスがこの地上からいなくなれば、イエスの代わりに聖霊がこの地上に降り弟子たちと共にその働きを引き継ぐことになります。
新約聖書もこのことがあったから生まれたのだと思います。
その人の教えとかなされたことを最も忠実に他者に伝えることができるのは、本人以外にはイエスと寝食を共にした弟子たちと言えます。
マタイの福音書第10章7節では、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われています。
このようにイエスは、ご自分の教えを群衆に伝えるために弟子たちを用いています。
もちろん、イエスの周りにはイエスの言葉を聞きたくて、癒しを求めて大勢の人が集まってきていますから、イエスひとりでは対応しきれなくなったと言うこともあったのでしょう。
マルコの福音書第3章15節には、「悪霊を追い出す権能をもたせる・・」、とあるのは、弟子達が宣べ伝える「神の支配」が事実であることを証明する為に弟子たちに与える権能でしょう。
マタイの福音書10章8節には、悪霊を追い出す権能どころか「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。・・。」とありますので、弟子に与えられた権能には、イエスが地上でなされた業のすべてが含まれています。
悪霊を追い出すことは、当時の人々は病気も悪霊の働きの結果であると考えていたのですから、病気の癒しでもあるわけです。
悪霊の支配を神の力、つまり、イエスの言葉で排除して、人々の身体の不調(病気)を癒し、神の支配が到来したことを(マタイの福音書第12章28節)証明されたのです。
それらは、神にしかできないことだから証明になるわけです。
そして、これらの権能はイエス御自身の名を使う方法で弟子たちに授けられたのです。
なぜなら、ルカの福音書第19章17節で、「主よ、お名前を使うと、悪霊でさえわたしに屈服します。」と弟子が言っているからです。
すなわち、「イエスの名によって」命じると、悪霊も屈服して出ていくのです。それは、イエスがすでに悪霊のかしらサタンに打ち勝ち、彼の支配権を打ち破って、すでにこの世は神の支配下にあるからです。
それは、悪霊を追い出すにしても、イエス生前中は、イエスが直接父なる神の力で追い出しましたが、十字架後は、弟子達はイエスの名により追い出しましたということです。
理屈が通っています。このようなところは本当に聖書ってすごいですね。信頼が増します。
7節の「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」は、イエスの後継者となった弟子達は、今まで、ただイエスに付いて行っただけであったが、今度はイエスと同じ働きを自分たちで行なうようになりました。
それができたのは、イエスが彼らに「権威」を与えたからであります。
イエスは「十二人」を二人ずつ組にして派遣されました。
使者が二人ずつ組にして派遣されるのは、当時のユダヤ教の慣行であったのでしょう。当時の裁判でも証人は二人を必要としました。
それは、一つは、安全面から、もう一つは、福音の信憑性を保証するためであったと思います(マタイの福音書 18章16節・申命記第19章15節)。
そういうことは当然のこととしても、宣教の働きを共にする者、思いを一つにする者が同労者ならば心強いものです。
8節には「旅には杖一本のほか何も持たず」、とあります。
イエスは「十二人」を世に派遣するに当たって、「汚れた霊を制する権威」を授けられましたが、生活を保証するための外のものは一切持たないように命じられました。
当面の食料も、生活用具も、小銭も、一切持たないと言う厳しいものでした。現在でもその様な伝道者がおられると聞きます。
自分の生活の必要はひたすら神に委せて、福音を伝えることに専心せよ、ということでしょう。
献身者は本来そうであるべきなのでしょう。しっかりとした信仰があり、神の召命がなければとてもできない相談です。
当時と現在では時代背景が全く違いますから、同じようには行かないと思いますが、インドのキリスト者スンダル・シングとか形が違いますがマザーテレサなどはそれを実践されたキリスト者だと思います。
いまさらながら、とてもわたしなどは聖職者にはなれないと思います。
10節と11節でイエスは実践論を教えます。
弟子十二人は杖一本で出かけましたが、当時の中東では、厳しい自然環境から生まれた習慣なのか、土地の人は旅人をもてなす強い習慣があったということです。
旅人はそのもてなしでもって生きていける、旅を続けられるということです。
イエスは弟子に、自分を迎え入れてくれる家に留まるように指示されます。
マタイ10章11節から13節には、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」とあります。
弟子たちを通して弟子たちを迎える家に与えられる『平和があるように』の平和とは、神との和解で得られる平和ですから、救いと同じだと思います。
神の使者である弟子を受け入れる者は弟子を遣わしたイエスを受け入れるのであり,イエスを受け入れる者はイエスを遣わした神を受け入れる(マタイの福音書第10章40節)という理屈でしょう。
11節の「あなたがたに耳を傾けようともしないところがあったら」とは、逆に使者の話に聞く耳を持たない家があれば、それはイエスを拒み、神を拒む者ですから、絶縁の証として、使者はその地を去るとき、「足の裏の埃を払い落としなさい」と指示されたということでしょう。
イエスの使者を、受け入れるか拒むかによって、救われるか裁かれるかの分かれると言うことです。
足の裏の塵を払うのは、ユダヤ人は、異邦人が多く住んでいる土地からイスラエルの土地に戻るときに、足の裏のちりを払い落とし、彼らは、異邦人の土地のちりでさえもイスラエルの地に持って行くのを拒んだことから来ているそうです。
ということは、現在でも伝道する者には、拒む人を回心させるところまで責任がないと言うことになります。
伝道者はキリストを伝えれば、責任から解放されるということでしょう。説得する必要もないのですね。
この個所が終わりの日の裁きのことを指しているのは、10章15節の「裁きの日にはこの町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」と言う言葉で明らかです。
当時の伝道の旅は、一か所にとどまることなく、次から次へと町や村を回る旅です。
旅には何も持たない、つまり、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と厳しく命じられています。
なぜなら、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」から、行き先で父なる神が備えてくださるものだけを当てにして旅をしなさいと言われているからでしょう(マタイの福音書第10章9節から10節)。
弟子たちの宣教運動は、イスラエルに限定されていました。
それは、イエスは派遣する弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。
また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じておられる(マタイの福音書第10章5節から6節)からです。
十字架死から三日後に復活された霊イエスは、弟子たちを「すべての民」(異邦の諸民族、イスラエル人以外)に派遣されますが(マタイの福音書第28章19節)、地上におられたときのイエスは、弟子たちをイスラエルだけに派遣されたのです。
それは、イエス御自身がイスラエルを悔い改めに導くことを使命としておられたからでしょう(マタイの福音書第15章24節参照)。
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