巡回して宣教する(マルコ1章)
共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第4章42節から44節です。
マルコの福音書に沿って読んでいきたいと思います。
マルコの福音書第1章
●35節.朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
●36節.シモンとその仲間はイエスの後を追い、
イエスはいつも朝早く起きて、誰もいないところで、朝もやのなかで、すがすがしい空気に包まれて祈られているのでしょう。
前日はペトロの家で夕暮れから夜にかけて多くの病人を癒され、夜遅くまで働かれましたのでイエスは疲れておられたでしょうが、見えざる父なる神との祈りの交わりは、欠かせなかったのでしょう。
祈りは、つまり、父なる神との交わりは、イエスの力の源泉でもあったのでしょう。父なる神と子なるイエスは聖霊の働きを持って一体です。
●37節.見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
弟子たちは朝起きて辺りを見回してもイエスがいないので、探したのでしょう。一時でもイエスの姿が見えないと弟子たちは不安になるのでしょう。
寝ても覚めてもイエスです。弟子たちは、自分の全生涯をイエスにかけているのですから、当然です。
さぞ弟子たちにとって、病人を癒し悪霊を追い出すイエスは自慢であったのでしょう。心の支えであったのでしょう。
ちょっとイエスの姿が見えないと探しまわる弟子たちです。
この「みんな」というのはイエスについてきたカフアルナウムの町の人々と弟子たちを指すのでしょう。
●38節.イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
福音は一部の人のものではないのです。
そこを出て、次の町、隣の集団へと進んで行かなければなりません。
イエスがこの世にこられた使命は福音を宣教することです。
疲れた体を押して、「わたしは宣教する。」と言われて、まだ知らない所へ進んで行かれます。
ここの「そのためにわたしは出てきたのである。」と言うのは、イエスはご自身をこの世に属する者ではなく、別の世から来た者であると自覚しておられるからそういう表現をされたのでしょう。
「そのために」はもちろん福音のために「出て来たのだから」と言われているのだと思います。
イスラエルの人々は、イエスに病気の癒しを求めて、地上の王、つまり、自分たちに都合のよい自分たちが造り上げた王を求めていますが、イエスの願われていたのは、ただ一つ、すべての人々が悔い改めて、福音を信じることなのです。
●39節.そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
ガリラヤでの宣教活動の初期は、イエスはおもに会堂で「神の支配」の到来を宣べ伝えられています。
イスラエルの歴史はイエスにおいて成就しました。
成就したということは、イスラエルの歴史全体、つまり、旧約聖書が世界に対して神の言葉となり、救済の御業となるということでしょう。
そして、イエスの言葉を信じる者によって新しい契約である新約聖書が生まれるのです。
イエスは宣教活動とともに「悪霊を追い出された」のです。
イエスは単なる口先の言葉をもって福音を伝えませんでした。
同時に、「悪霊を追い出す」という力ある業をもって、その言葉が神の「権威ある言葉」であることを証されたのです。
それは同時にこの世に「神の支配」が到来(近づいた)したという終末が現実になる「しるし」となりました。
イエスは、約束によりこの世に来られ、この世は神の支配がはじまりました。つまり、終わりの日が到来しましたが、終わりの日はまだ完成していません。
人間の歴史は、終わりの日にはメシヤがこの地上に来られ、すべての人類を罪の中から救いあげるという約束の日、そして、その約束の成就の時(イエス・キリストは再臨され、すべての人類は、裁きを受けて新しい人間に造りかえられて、つまり、「見よ、わたしは万物を新しくする」(ヨハネの黙示録第21章5節)と言われた言葉の成就)を待つのです。
わたしたちが生きる今のこの世界はその間であるということでしょう。
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