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2018年1月30日 (火)

続・十二人を選ぶ(マルコ3章)

先に投稿しました「十二人を選ぶ」の続編です。

「召命」について辞書を引いてみますと、「キリスト教で、神の恵みによって神に呼び出されること。伝道者としての使命を与えられること。」とありました。

召して命じるのです。

該当する聖書個所はマルコの福音書第3章13節から19節/マタイの福音書第10章1節から4節/ルカの福音書第6章12節から16節です。

聖句は、マルコの福音書のみ搭載しておきます。

マルコの福音書第3章13節から19節
●13節.イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。

●14節.そこで、十に人を任命し、彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、

●15節.悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

●16節.シモンにはペトロという名を付けられた。

●17節.ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

●18節.アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、

●19節.それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

イエスは弟子の中から十二人を選びました。

そして、ユダヤ教の世界にイエスの言葉を宣教するという全く新しい組織を造ろうとされています。

汚れた霊の追い出しとか病気の癒しの権能を与えたのは、イエスの言葉(神の支配が始まったことが)が現実のものであることを証明するためだと思います。

人の霊を支配したり(悪霊に憑かれた状態)、人の身体を不調(病気)にしたりしている悪霊を、神の力、つまりイエスの名によって追い出し、神の国、神の支配がはじまったことを証ししました。

召命ですから弟子たち個人の意向は関係ありません。

弟子たちが自分から伝道を申し出たわけでもありません。弟子たちは一方的に選ばれて任務を命令されたのです。

それなのに弟子たちは何も文句を言わず、素直に従っています。

そう、幼子のように従っています。神に召されると言うことはそういうことなのでしょう。

幼子は親がいなければ生きてはいけません。

生存できるかどうかを全面的に親に依存しています。イエスについていくとは、そういうことなのでしょう。

十二人の弟子を召命するときにイエスは、弟子たちの特技とか資質を考慮されたのでしょうか。聖書には何も書いていません。

会社が人を採用する場合は、特技とか資質を考慮して選び、それを生かした方法で仕事ができるようにと考えます。

ところが、イエスが弟子を選ばれた時にはそういうことは全く考慮されていないのです。少なくとも、表面上はそのように見受けられます。

それに、弟子たちが真に理解したどうかは問題がありますが、新しい教えを伝えましたが、その教えをすべての人に述べ伝える方法について、特別に訓練したとも書いていません。

ということは、そういうことは神から与えられ導かれて得られることで人間の意志や努力ではないと言うことになります。

選ばれた弟子たちの伝道の歩みは、いやイエスを証する歩みは多様です。

少し拾ってみますと、義人ヤコブのように律法に忠実な者、ペトロのようにユダヤ人に福音を伝えた者、トマスのように西へ向かってインドに福音を伝えた者、アンデレのように小アジアに向かった者など色々です。

こうして見ると、選ばれる前に何をしていたかなどには関係がなく、選ばれた後の歩みが大事なのですね。

ヤコブのように早くに殉教する者、ヨハネのように長生きする者、西へ向かう者、東へ行く者、フィリピのように南へ降る者、北はアナトリアまで上る者等いろいろです。

また、伝道の仕方も、その対象とする人々も、その結果もいろいろです。

働き方も働きかける相手もばらばらです。

こうして見るとまとまりがないように思えますが、イエス・キリストにあって弟子たちはバラバラではないのです。

現在のキリスト教界においても、各宗派がいろいろとありばらばらのように見えますがやはりばらばらではないのです。

つまり、主イエスを証するという点において一つなのです。

そこに神の霊、聖霊の働きがあるのです。

もちろん、聖書もそのために用いられます。

つまり、神の御霊、聖霊はばらばらのように見えるキリスト教会、あるいはクリスチャンを用いてイエスの言葉を証しているのです。

選ばれた弟子たちは、一人ひとりであり、バラバラに歩んでいるようでありながら、実はそうではない。目に見えないところでつながっているのです。

新約聖書に使徒言行録と言うキリスト教会が生まれた時の状況とその後の一部の使徒の働きを書いた文書があるのですが、そこに書かれているのは、十二使徒全員ではなしに、ペトロやヤコブやヨハネのような代表的な一部の使徒と、イエスが十字架にかかって死んだあと、復活したイエスに出会って弟子になったパウロのことが中心です。

選ばれた十二人の弟子の中の数人の弟子のことだけが福音書に記され、後の教会に覚えられ伝えられていますが、それ以外の弟子たちが行なったことは、聖書にはほとんど何も語られていないのです。

ただ名前だけが残っている弟子たちもいるのです。

聖書に書いてなくて、名前だけしか残っていない使徒たちも、やはり、ペトロやヤコブやヨハネと同じように、イエス・キリストのために命をかけて福音を証しして、殉教していったと伝えられています。

それらの弟子についてもいろいろ伝承はありますが、確かなことは何も分からないということです。

それに十二弟子以外にも周辺に弟子は多くいました。

それらの弟子は何をしたか、どこでどのように殉教したのかなど何も伝えられていません。

誰にも知られなくても、十分に信仰深くて、立派な業績を上げている弟子も多くいたと思います。

それはその後2000年のキリスト教の歩みを見れば間違いがないところです。

その人たちもやはり命がけで福音を伝えて、同じように殉教しているのです。その数や夥しいと思います。その人たちは、現在のキリスト教の礎を築いた人たちです。

こうして見ると、聖書に書かれている人達はほんの一部で、名も知れず、何をしたかも知れない人たちの代表だといえます。

これからも福音伝道に携わった人の中で、歴史にその名を残す人々はほんの一部でしょう。

福音を証するキリスト者になるとはそういうことなのでしょう。

名前を残すこと、業績を残して有名になること、お金儲けをすることではないのです。

イエス・キリストを伝えその証しをする、十二使徒も周辺の弟子たちもただそのことのために命をかけたのです。

自分の一切をイエス・キリストのために喜んで命を捨てる。

神に召された人はすごいですね。わが身を振り返ると、同じクリスチャンでもえらい違いです。

神に召された人は、ただ、イエスのために命をかけて、イエスに出会ったことを証してこの地獄のような地上世界を生きるのです。

この世の真理を知ると言うことは人をそこまで変えてしまうことなのです。

パウロは言っています。
キリスト者の生き方は「信仰と愛と希望」であると。

人の意見とか世の価値観など関係がないのです。

信仰はもちろん神との関係、愛は人間関係、希望は来世における永遠の命を指すのだと思います。それがキリスト者が生きる道なのです。

誰でもが知っている有名なキリスト者として、マザーテレサとかキング牧師がおられます。

その人たちは、カトリックとプロテスタントの違い、生まれ育った環境、召命を受けた場所も奉仕した状況も対象も、またその内容も全く異なっています。

それでも、二人は召命を受けた立派なキリスト者だと思います。大きな働きをして用いられました。

その他にも有名でない多くの召命を受けたキリスト者が世界中におられると思います。

つぎのパウロの言葉がそのようなキリスト者の生きざまをよくあらわしていると思います。

ガラテヤの信徒への手紙第2章20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

聖霊にあってイエスの命に生きる、自分の命はイエスと言えるようになること。

どうすればそのように心境になれるのでしょうか。

人間の努力ではできません。

わたしたちがすることは、自分を無にして御霊の導きに委ねるだけで良い。

それでは、どうしたら自分を無にして委ねることができるのだろうか。

それはイエスの言葉を本当だと信じていつも心に留めておくこと。

具体的には、聖書を毎日読んでいつも聖書の言葉になじんでいることだとわたしは思っています。

そのようにしていれば、聖霊が働き、導いてくださるのでしょう。

しかし、よく考えると歴史に名を残すような働きのために召命を受けたら、自分の人生が大きく変わってしまうようで怖いです。

このようなわたしだから神様もあまり期待しておられないかもしれません。

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