イエス、洗礼を受ける(マルコ1章)
イエスが洗礼者ヨハネから水のバプテスマ[洗礼]を受けられた時の聖句を見てみたいと思います。
聖書箇所は、マルコの福音書1章9節から11節、マタイの福音書3章13節から17節、ルカの福音書3章21節から22節です。
マルコの福音書を読んでみたいと思います。
マルコの福音書第1章
●9節.そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
●10節.水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になった。
●11節.すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。
マタイとルカの福音書にもこの状況を同じように記録しています。
さて、イエスはなぜ人間と同じようにバプテスマを受けられたのでしょうか。原罪を持たない神の子なら必要がないと思うのですが。
それは、フィリピ信徒への手紙第2章7節の「かえって、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」が実現するためであったと言えます。
神から離反し、罪の中に沈む人間を担うために神の子イエスが、人間と同じ者になり、人間と同じようにヨルダン川でバプテスマを受けられたということです。
イエスはその後も十字架で亡くなるまで人間と共に歩まれました。
この地上に生まれたイエスは、神の子という面と、人の子という面との二面を持った存在だと聖書は言っています。
この二つの面の相対的な関係が、イエスが水のバプテスマを受けられたのを境にはっきりと変わったと思うのです。
水のバプテスマのすぐ後で「霊が鳩のように御自分に降った。」とありますが、この描写は、何も鳩の形をした聖霊が降ったと言うより、聖霊が降るときの降り方を描いていると理解すべきではないでしょうか。
聖霊が御自分に降ったという事実をイエスが自覚されたことの方が大切かと思います。
イエスが神の子としてこの世に出現されたのは何も突然のことではなく、長い2000年にわたる準備期間がありました。
それは、神がイスラエル民族を選び、罪の中から人類を救済するという神のご計画の結果でありました。
また、イエスの出現は、その御計画の中で用いられた預言者を通して預言されていたことでもありました。それがイザヤ書42章1節です。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」
このように預言者イザヤは、地上で神の御心を実現する「わたしの僕」、すなわち、「主の僕(しもべ)」の出現を予言しました。
11節は、バプテスマにさいしてイエスは何らかの霊的な現象を、すなわち、自分が主の僕の預言全体を成就する者として召命があったと自覚されたので、そのことをこのように表現されたのでしょう。
イエスは「わたしの愛する子」という神の声を聞かれたのでしょう。
その言葉は、主人と僕の関係を超えて、父と子の愛において一体となられたことを明らかにしています。
この時からイエスは聖霊により、父と一体となって生きる現実に入っていかれたのだと思います。
父なる神と一体である子イエスは、父なる神を世に示すことを使命とされたのと同時に、イザヤ書42章1節の「主の僕」に書かれている使命を実現すべく、イザヤ書53章(主の僕の苦難と死)で語られている世の罪を負って苦難を受ける主の僕の姿を自分が進むべき道として受けとめられたのだと思います。
通常、聖霊体験は、幻を見るとか異言(使徒言行録第2章4節)を語るなどの不思議な現象が伴うこと(そういう外面的な現象が伴わないこともあります)がありますが、それは外面的な現れであって、ここでのイエスの召命は、姿は見えないが語りかける言葉は聞こえ、同時に語りかける方の人格の圧倒的な実在を実感するというような現象であったのではないでしょうか。
イエスもこのとき、「天から声があった」としか表現のしようのない聖霊体験によって召命を受けたと理解されたのではないでしょうか。
それでは、大切なことなのですが、イエスの聖霊体験とわれわれの聖霊体験との違いを考えてみましょう。
イエスのこの時の聖霊体験から見てみたいと思います。
イエスの聖霊体験に、霊的体験の原型を見ることが出来ると思うからです。
もちろん、同じ神からの御霊を受ける体験ですが、イエスの場合とわれわれの場合では自ずと違う点があると思うのです。
まず、前提条件がまったく違います。
イエスは本来罪なき方として、魂に至るまで神への背きの全くない方として、神から直接聖霊を受けられたのですが、わたしたちはアダム以降、生まれながら神に背いている状態(つまり、原罪)にあり、そのままでは神の霊を受けることはできない存在であると言うことです。
わたしたちが聖霊を受けることが出来るのは、イエスの十字架死、死から復活の御業がなされたことにより初めて受けられる神の恵みによる賜物だと言うことです。
それは、復活されたイエス、すなわち主イエス・キリストを信じ、この方に合わせられることによって、キリストの十字架の死において成し遂げられた贖罪にあずかり、復活されたキリストを通して神からの聖霊の賜物を受けるということです。それは神の約束です。
そのようにイエスの十字架死と復活の出来事が起こるまでは、わたしたちは直接神から御霊を受けることはできない存在であったのです。
イエスを信じる者が、恵みの賜物として聖霊を授かることによってその者は神の愛を実感することが出来るのです(ローマの信徒への手紙第5章5節)。
そのようにして、神の子となったわたしたちは(ローマ書第8章15節)、もはや自分の意志や願いによって生きるのではなく、神の意志を行うことが人生の目標となり、使命となるということです。
そして、ローマ書8章16節の「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます。」が実現するのだと思います。
水のバプテスマ以前のイエスには、人間の世界に神の子として生まれたが、大工の長男であるという「人の子」の面が前面に出ていました。
しかし、水のバプテスマを受け、水から上がられたイエスには、神の子という面が前面に出てきたと思います。
イエスが水から上がったその瞬間、天から「わたしの心に適う者」という声が降ったのは、名実とともにイエスは神の子になったと理解することが出来ると思います。
イエスは、神の御計画の下に神の子となるべく生まれたのですが、神から力を受け神と共に歩むには聖霊が降るという事態が必要だったのでしょう。
それは神の言葉をもってイエスと神は一体化すると言うことだと思います。
次の聖句がそのことを現しています。
「わたしと父とは一つである。」(ヨハネの福音書第10章30節)
言い方を変えれば、この時からこの世はイエスのみ名を通して、神の支配がはじまったと言えます。
したがって、この時までは神に選ばれたイスラエルの民だけが、神の言葉を預かる「預言者」を通じて間接的に神の啓示を受け、神の言葉を預かっていましたが、それらのこともイエス出現の準備のための一時的で過渡的なものであったと言えます。
その預言者の預言もイエス出現の前数百年間はなくなっていました。
それは、神のいない暗黒の時代でした。
そういう状況の中で、イスラエル民族は救い主を求めて、神に「天を裂いて下ってください」(イザヤ書63章 19節)と祈っていたのです。
預言者たちは、やがて終わりの時に神の霊が留まる人物が現れて、新しい時代をもたらすことを予言していました。(旧約聖書イザヤ書11章1節~5節(平和の王)、42章1節(主の僕の召命)、61章1節(貧しい者への福音)など。
イエスのバプテスマにより、その時が実現したのです。
天は裂け、神が御子イエスにより直接人類を支配する新しい時代が始まったのです。
イエスのバプテスマは、そういう歴史の転換点に位置していると言えます。
神は、イエスによりこの世の支配を開始し、イエスの死後はキリスト者、その集まりである教会を用いて神(イエス)の支配するワールドをこの世に造ろうとされているのです。
これを境にイエスは、別人のようになります。
神を父と呼び、自らを神の子と公然と宣言し、父から受けたという父の言葉を権威(神の臨在を背景に)を持って教え、そのことが事実であることを証するためにしるしと不思議な業を行います。
以後、それは、受難、十字架死、復活、昇天と、最後まで続きます。
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