「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25章)
今回はマタイの福音書25章1節から13節を読みます。
共観福音書の並行個所はありません。
このたとえ話で伝えようとしていることは、13節の「目を覚ましていなさい」でしょう。
そして、「語録資料Q」などの伝承素材を用いて、マタイ自身が形成したたとえであるとみられています。
人類救済のみ業、つまり、救い主の到来と神の支配の始まりの時を、花婿が到着した婚宴のたとえ話で語っています。
イエスはほかの個所でもご自身を花婿にたとえて語っておられます(マタイの福音書9章15節、マルコの福音書2章19節参照)。
マタイは、「キリストの再臨」を婚礼の宴への花婿の到着というたとえで語り、その時に備える心構えを本文の「十人のおとめ」のところで語っています。
●1節.「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
●2節.そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
「おとめ」というのは、花嫁の付添として婚礼に参加する未婚の女性たちのことで、おとめに語られる言葉は、キリストの再臨を待望するキリストの民に与えられた訓戒とみられています。
「それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」というのは、十人のおとめ、いわゆる十人のキリストの民が「花婿」キリストを迎えに行くのですが、その民の中で「五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)のです。
「ともし火」というのは、木の小枝の束に布を巻き、それにオリーブ油などをしみこませた松明で、火をつけると暫くはあかあかと燃えるが、油が切れると消えます。
●3節.愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
●4節.賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
「愚かなおとめたちは」予備の油を用意していませんでしたが、「賢いおとめたちは」予備の油を「壺に入れて」用意していたのです。
「ともし火」を長く持たせるには、予備の油を用意して、消える前に補給しなければならないのです。
ところが、五人の愚かなおとめは「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」のです。
●5節.ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
「花婿の来るのが遅れた」というのは、花婿はキリストですから、キリストはなかなか来られないので、「眠気がさして眠り込んでしまった」ということです。
つまり、賢いおとめも愚かなおとめもキリストの再臨を待ちくたびれて眠り込んでしまった、すなわち、来られることへの疑いや不安の中で信仰の火が消えそうになったのです。
この時代は、キリスト者に対する厳しい希望のない迫害の時代であったのでしょう、キリストの再臨待望が熱を帯びていたと思うのです。
マタイが福音書を著わしたころは、まさにこのような状況であったのでしょう。
●6節.真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
●7節.そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
●8節.愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
しかし、突然「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」のです。
すなわち、真夜中つまり、信仰の火が消えかけて、世界がキリストの再臨を待ちくたびれて、再臨に無関心、無感覚となったその時、花婿であるキリストは、キリストの民を花嫁として迎えるために突然再臨されたのです。
その時に、キリストの民である十人のおとめたちはみな同じように眠っていたのですが、同じ眠っていたおとめの中でも、油の用意をしていた賢いおとめ五人は、燃える松明をかざして花婿を迎え、婚宴の席に入るのです。
一方、油の用意をしていなかった他の五人も、松明をかざすのですが、すぐ油が切れて消えそうになり、予備の油を用意していた賢いおとめたちに油を分けてくれるように懇願するのです。
●9節.賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
●10節.愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに油を分けてもらえなかったので、買いに行くのですが,そうこうしている間に戸が閉められて花婿であるキリストに迎えてもらえなかった。
●11節.その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
●12節.しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
一旦戸が閉められたら、幾ら懇願してももう戸は開かないのです。
賢く準備していた者は栄光に迎え入れられ、準備をしていなかった愚かな者は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」という厳しい言葉で捨て置かれるのです。
●13節.だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という明確な言葉で訓戒を与えられてこのたとえ話は終わります。
最後に「油」が何を指すかという問題がのこりますが、たとえ話ですから、読む者の解釈に委ねられているとも取れます。
しかし、現在を生きるわたしたちクリスチャンが、「油を用意していなさい」という警告を聞く時は、信仰の火を消さないようにということで、「御霊によって歩んでいなさい」ということになるのではないでしょうか。
ということは、「油」は聖霊の象徴になると思うのです。
「ともし火」、つまり、信仰の火を燃やすには聖霊の働きが必要です。
聖霊がなくならないように、いつも用意しておかなければ、キリストの再臨の時に信仰を保って備えておくことができません。
ローマの信徒への手紙8章9節にパウロのこのような言葉があります。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」。
先に書きましたパウロの言葉「御霊によって歩んでいなさい」というのは、イエスの言葉を信じ心に留めることによってもたらされる「信仰と愛と希望」(テサロニケの信徒への手紙一1章3節、同5章8節)の中に生きることだと思うのですが、それは聖霊の油でともし火である信仰が消えないように燃やし続けながら生きると言うことだと思うのです。
その様にして、キリストの民は、常にキリストの再臨に備えていなさいと言うことだと思います。
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