多くの病人を癒す
共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第4章38~41節、マタイの福音書第8章14~17節です。
マルコの福音書1章
●29節.すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
●30節.シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
「シモンのしゅうとめ」というのは、十二弟子の一人シモンの妻の母親のことで、病気の癒しの話です。シモンは結婚していたと思われます。
●31節.イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
ルカの福音書の並行個所は、第4章39節で、「イエスがまくらもとに立って熱を叱りつけられると、熱は引き」と伝えています。
それに対してマルコは「イエスがそばに行き、手をとって彼女を起こされると、熱は去り」と書いています。
イエスは、その病気が悪霊からの場合は、悪霊を追い出す命令の言葉を発せられます。
並行箇所であるルカの福音書でも熱病を悪霊の仕業として、「熱を叱り」というように、権威ある命令の言葉を発しておられます。
ここでは省略しているのかそのような言葉はありませんが、「手を取って起こされる」とありますから、イエスの「起きよ」という無言の命令(31節)が行動になり、無意識に床から起き上がったと見るべきだと思います。
その背景には姑のイエスへの信頼の心があるのでしょう。
つまり、信仰とは神の言葉に人が信頼の心で応えることであって、神と人が一つとなるときに驚くべき奇跡が起こるのでしょう。
●32節.夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
シモンの姑が癒されたのは安息日の午後でした。会堂で悪霊を追い出されたイエスのことは、その午後の間に町中の評判になっていました。
ユダヤ教の律法では、安息日に病人を癒す行為は禁じられていましたので、「夕暮れになり日が沈むと」というのは、噂でイエスのことを聞きつけた住民が安息日が終わるのを待ちかねて病を癒していただくために押し掛けてきたことを意味していると思います。
住民は、ユダヤ人教師から、病気をいやすことは神の禁じる「働くこと」になる、と教えられていたと思います。
きっと、イエスは、そのような規則に縛られている彼らを憐れに思われたのでしょう。
イエスが、病を癒される場合は、憐みの故になされていることがほとんどだと思いますが、けっして、病気の癒し、悪霊の追い出しが、イエスがこの地上に来られた主目的ではありません。
病気の癒し、悪霊の追い出しは、イエスの中に神の支配が始まっていることを証していると思うのです。
●33節.町中の人が、戸口に集まった。
●34節.イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
シモンの家の戸口は安息日が終わるのを待ちかねて(当時は日の出から日没までが一日であるから)大勢の病人が押し掛けてきたのでしょう。
病気の癒しと悪霊の追い出しは、イエスの「神の国」宣教に付きものでした。それができるのは、イエスの言葉に権威があるからだと思います。
もちろん、その権威は神からきたもので、イエスのなされる奇跡は神の御業と言えます。それは、イエスは父なる全能の神と一体であるから、当然です。
悪霊は、イエスが神の子であることを知っていました。
それは、悪霊も神の子であるイエスも同じ霊界の存在だからでしょう。
そのイエスは悪霊にご自分のことを話すのを禁じられました。
イエスが、そのように言われたのは、御自分が、神の御子であることを人々に知っても民衆は理解できないと思われたのでしょうが、なによりもまだその時ではなかったからだと思います。
まだまだこの地上で、わたしたちに伝えるべきこと、やるべきことが多くあったのだと思います。
ご自分が神の子であると公になれば、ユダヤ教指導者はイエスをほっては置かないでしょう。
何度も書きますが、イエスはまだ十字架にかけられ殺されるわけにはいかないのです。やるべきことがたくさんあるのです。
●35節.朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
イエスはおそらく毎早朝祈りによって父なる神と交わり力を得て、霊的生命を充実させておられるのでしょう。
朝早く起きて人がいないところで祈る。イエスはどんなに疲れても祈りを疎かにされることは無かったのでしょう。
見えざる父との祈りの交わりこそ、イエスの力の源泉であったのでしょう。人々が深い眠りの中にある時、イエスはただ一人誰もいない寂しい場所に行って父なる神との交わりを求めておられたのでしょう。
●36節.シモンとその仲間はイエスの後を追い、
●37節.見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
イエスは朝早く人々を避けて、人のいない静かなところで父なる神と交わるために祈っておられたのでしょう。
そこへシモンとその仲間がやってきて「みんなが捜しています」とイエスに伝えます。
病をいやすことも、悪霊を追い出すこともでない、その方法も力も持たない大勢の人々が、藁にもすがる思いで朝早くから助けを求めて、イエスを探しているのです。
人びとはイエスに、自分たちの土地に留まってほしいと思っていたでしょう。でも、イエスは、人間の病をいやすためにこの世に来られたのではありません。
神の国の福音を述べ伝えに来られたのです。
病気の癒しや、悪霊の追い出しはそのための手段に過ぎません。
イエスには、この地上にいる間に、まだまだやるべきことがあります。
●38節.イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
イエスの冷たい言葉ですが、それもやむをえません。
神の国を述べ伝える福音は、この地上にいるときに、できるだけ多くに人に知らせる必要があるのです。
イエスがこの世に来られたのは、一握りの人間の願望を満足させるためではないのです。そこを出て、次の町、隣の集団へと進んで行かなければならないのです。
状況から見ると、おそらく人々はイエスに福音以外のものを見て、すなわち、イエスを魔術師とか、悪霊払いと同じように思っていたのだと思います。
しかし、イエスの願われていたのは、ただ一つ、人々が悔い改めて、福音を信じることでした。
イエスが福音を伝えても、人々は病を癒されたい一心で、イエスの言葉よりも奇跡だけを求めるようになります。
人々の心がそのようになったとき、イエスは、他の村里に行くことを選ばれたのでしょう。
●39節.そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪魔を追い出された。
ガリラヤでの宣教活動の初期においては、イエスはおもにユダヤ教の会堂で「神の支配」の到来を宣べ伝えておられました。
イエスの福音は、この時代はユダヤ教の中の一つの派閥のような感じであったのだと思います。
神の民イスラエルの歴史は、預言者において預言された通り、神のご計画の中で、イエスにおいてその目的地(救い主の到来、終わりの日の到来)に到達しました。
そして、新しい約束のみ業の完成のためにイエスはわたしたちを導かれます。
イエスは言われています。
マタイによる福音書5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」。
この言葉の意味は、イエスにおいて成就したイスラエルの歴史全体(旧約聖書)が世界に対して神の言葉となり、救済の御業となるということでしょう。
こうして見ると、イエスが奇跡をなし、悪霊の追い出されたのは、神の支配が到来したという福音を宣べ伝え、それをわたしたちに事実として信じさせるためでもあったと言えます。
イエスの言葉は、単なる口先の言葉だけではく、同時になされた奇跡的現象はイエスご自身の内に神の支配が到来している、すなわち、終わりの日が現実に到来している「しるし」が伴っていたのです。
« 番兵、報告する(マタイ28章) | トップページ | 巡回して宣教する(マルコ1章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント