フォト
2022年8月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

« 「二人の息子」のたとえ | トップページ | エルサレムのために嘆く »

2018年1月 2日 (火)

善いサマリヤ人

マタイの福音書22章37節にイエスが最も重要な掟とされた言葉があります。

 

それは、「心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』です。

 

この聖句は、イエス自身が膨大な旧約聖書の内容をまとめられたものと思います。

この聖句そのものの解説は、「最も重要な掟」(カテゴリーは共観福音書を読む)として別に投稿します。

 

今日はこの聖句の『隣人を自分のように愛しなさい。』について考えてみたいと思います。

そうすると、神がわたしたちに求める愛がどのようなものであるかが見えてくると思うからです。

この「自分のように」とは、一言でいえば、自分がしてほしいと思うことを相手にしてあげなさいということだと思います。

 

 

もちろん、自分がしてほしいことには誰も条件を付けませんから無条件です。

 

その愛は、隣人をあるがまま受け入れる愛、つまり、隣人が金持ちであろうが貧乏人であろうが、地位や名誉があろうが無かろうが、利害にも関係なく、もちろん人種とか性別も関係なく、誰であろうが隣人を無条件でありのまま受け入れる愛です。

 

だから、イエスはわざわざ「自分のように」という言葉を入れられたのだと思います。

 

それは、わたしたちが通常他人を愛する時は、自分に利益があるとか、見返りを求めて愛することが多いからです。

そのように条件を付けて愛するのは神がわたしたちに求めておられる愛ではないのです。

 

次のイエスの言葉がそのことを言っています。

この聖句に出てくる徴税人は、ローマの手先と言われて、当時もっとも軽蔑されていた職業です。

 

マタイの福音書第5章46節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」です。

 

それでは、隣人とは誰をさすのでしょうか。

イエスの喩え話に、この隣人をよくあらわす有名な喩え話があります。

 

自分は律法を守っていて正しい人間であると考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「わたしの隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対してイエスが答えられた「親切なサマリヤ人」の喩え話がありますので、そこのところをみてみたいと思います。

 

イエスはお答えになった。

 

「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

 

ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

 

ところが旅をしていたあるサマリヤ人(ユダヤ人と異邦人の混血の民)が、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

 

そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。

 

『この人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さてあなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカによる福音書第10章30節~36節)です。

 

ィエスが語られたこの喩え話は、登場する三種類の人たちを通して、多くの教訓をわたしたちに教えています。
この聖句で隣人とは、追いはぎに会った「ある人」を指すのでしょう。

 

イエスは、混血ということで差別されているサマリヤ人と支配階級であったレビ人と祭司の三者の隣人への対応を比べる形で、支配階級への皮肉をこめて説明されました。

 

追いはぎに会い、半死半生の目に遭った隣人は、困っている人、弱っている人を指しています。

 

その人たちは、わたしたちの毎日の生活の中で、周りを見回して、助けを求めている人びとのことでしょう。

 

わたしたちは気が付きながら、助けを求めている人にそっぽを向いて通り過ぎていないでしょうか。

 

この喩え話では、道端に倒れている人の側をたまたま通りがかったサマリヤ人を含む三者の対応の違いが問題になっています。

 

結論から言うと、「隣人を自分の様に愛しなさい」とは、社会的に被差別者であるサマリヤ人の道端に倒れている人(隣人)への対応を取り上げています。

 

ですから、此処で言っている隣人とは、隣の人と言う意味ではなく、その時その場で出会った自分に助けを求めている人のことだと思います。

 

サマリヤ人は、差別されている身分でありながら、誰であろうが条件なく、いま困っている人に助けの手を差し伸べています。

 

倒れている人の側を通りがかったほかの二人、つまり、身分の高いレビ人や祭司は、日ごろえらそうなことを言っても、自分の利益にならないことはしない。

 

たとえ死にかけている人がそばにいても見て見ないふりをして通り過ぎていきます。

 

この傷ついて倒れている旅人は状況から判断すると、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。

 

この旅人を遠回りして見過ごして行ってしまうのは、わたしたちの現実の姿でしょう。

 

世界を見回しても、いや自分の身の回りにもお腹をすかし、傷つき倒れて横たわっている人が大勢います。

 

その人たちはわたしたちにとって隣人なのです。

 

家族とか自分に利益がある人などを愛するのは誰でも愛します。

 

でもこの喩え話のように、見ず知らずの人を愛することは人間にはなかなかできません。

 

イエスが言われる、隣人は、自分がその人を愛していても愛していなくても、この喩え話のように、道端で倒れて、あるいは人生の途中で苦しんでいる人、困っている人を、サマリヤ人のように愛しなさいといわれているのです。

 

もちろん、愛しなさいとは、困っている隣人を見かけたら、その人の立場になって、自分がしてほしいと思うことを無条件でしてあげなさいということだと思います。アガベーの愛です。見返りを求めない自己犠牲の愛です。

 

まさしく、神が御子イエスをもってわたしたちに示された愛なのです。

 

祭司は、エルサレムの神殿で神に仕え、人々を助ける立場の人でありました。

 

レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人でした。

 

そのために両者とも生活費の多くは人々の献金によっていたでしょう。

 

そのような、神殿で神に仕えている彼らが、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。

 

神につかえながら神の本当の姿を知らない人々を喩えにあげてイエスは語られたのでしょう。

 

わたしたちも、自分に問いかけてみますと、なかなかこのサマリヤ人のようにはできません。

 

もちろん、わたしたちは祭司などのように人々の献金で生活費を賄っているわけではありませんが、心根はよく似たものです。

 

では、どうすればできるのでしょうか。人間として努力してできるものならば苦労はしません。

 

そのようにあろうと努力するのは大切ですが、本当の意味でそのような愛がわたしたちのうちに実現するのにはどうすればよいのでしょうか。

 

聖書にこのような聖句があります。新約聖書ルカによる福音書第6章36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。

 

イエスが人間関係に求めておられるのは、この聖句が示すように、神ご自身が人間を慈しみ、愛するような愛をもって、人間が相互に愛し合うことではないかと思うのです。

 

イエスは、この投稿文の最初に上げました第一の掟、「心を尽くし、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。」を守ればそれが出来ると言われているのです。

 

アダム以降神から離れて罪の中にいる自己中心的な人間にはできないことかもしれません。神の助けが必要なのです。

 

イエスは、自らが十字架にかかることにより、無条件で全人類の罪を赦すという神の愛を人間に示されました。

 

イエスは十字架の贖罪死により、すべての過去・現在・未来の人類の罪をありのまま受け入れられたのです。

 

父なる神から託されたわたしたち人類の罪の贖罪と言う御業、人類の罪があまりにも重かったので、もちろん、人間としての十字架刑に対する恐怖もあったでしょう。

 

そのためにイエスは、ゲッセマネの丘での祈りのときに、血の汗を流されたのではないでしょうか。

 

人性をも持っておられたイエスは、その重荷から逃れたいとも思われたでしょうが、最後には父なる神にすべてをゆだねて、人類を罪の中から救い上げるために決然と決心をして十字架への道を歩き始められました。

 

神を知れば神の愛を知ることができる。そうすれば、神を愛することができ、その人は隣人を愛せるようになる。

 

言い換えれば、イエスを信じることができれば、神の霊、聖霊が、その人に内住し、神の愛を示し、その人を導いてくださるのです。

 

そういう意味で、最初にあげた聖句は、二つにして一つの戒めといえるのだと思います。

 

なお、わたしは「親切なサマリヤ人」の喩え話のサマリヤ人の姿は、わたしたちの将来の姿、本来あるべき姿としてとらえたいと思います。

 

マザーテレサのような特別な方は別にして、イエスは、いますぐに誰でもができるとは言っておられないと思うのです。

 

今日の聖句、「ヨハネにいる福音書第14章15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

 

« 「二人の息子」のたとえ | トップページ | エルサレムのために嘆く »

おじさんの聖書」カテゴリの記事

コメント

 良い話を読ませて頂きました。誰かさんの様に「わたしの隣人とは誰でしょう?」と尋ねるのではなく、誰の隣人になれるか周りを見渡し利他的愛をもって歩んで行きたいと思いました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 善いサマリヤ人:

« 「二人の息子」のたとえ | トップページ | エルサレムのために嘆く »