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2018年1月21日 (日)

中風の人を癒す(2)(マルコ2章)

「中風の人を癒す(1)」からの続きです。

マルコの福音書第2章11節の「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」というイエスの力強い言葉の後で、12節で「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」とあります。

この中風の人は、身体が麻痺して長年寝たままで、おそらく足は骨と皮だけのように痩せ細って、立ち上がることもできなかったでしょう。

想像できます。

その人が、イエスの言葉を聞いて、その言葉に従って立ち上がろうとすると、不思議な力が身に注がれて、立ち上がることができたのです。

それだけではなく、自分を運んで来た床を、今は自分が取り上げ、それを担いで歩くことができたのです。
まことに驚くべきことが起こったのです。

この出来事は目に見えて誰にでも確認できる事態です。何ら人間的な説明は不要です。作り話とか噂話のたぐいではないのです。大勢の証人がいるのです。

その場にいた人々はただ驚嘆し、その権威にひれ伏したのでしょう。

中風の人は、イエスの言葉を疑いもせず、躊躇もせず、すっと、立ち上がったのです。だから立てたのです。

子供のようにイエスの言葉を信じたからです。

神からでた言葉は実現するのです。彼らが見たイエスの出来事は人類が今までに見たことのない出来事、全く新しい出来事、終わりの日の出来事である、ということを福音書記者マルコは伝えたかったのでしょう。

このような事態を見た群衆は、律法学者の批判的な態度とは裏腹に、すなおに神をあがめています(12節)。

旧約聖書イザヤ書第35章6節「そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」の言葉が実現したのです。
この物語は、病の癒しと罪の赦しが一体となっています。

イエスは、癒やされる前に「あなたの罪はもう赦されている」と宣言されているからです。

つまり、罪の赦しがあって、癒しがあるのです。

だから逆に言うと、癒されたと言うことは罪が赦されたと言うことになります。

罪が赦されなければ神の癒しもない。神の癒しはその病の根源的な原因である罪からの癒しなのです。

そう言う意味で、わたしたちが病院に行き病が癒やされるのは、根源的な癒しではないのでしょう。

イザヤ書に「わたしたちは彼の受けた傷によって、癒された。」(53章5節)とあります。

イエスの十字架死において、この預言が実現したということは、イエスの十字架の意義を見いだしたということです。イエスの受けた傷によって、わたしたちの傷が癒されたのです。そう、罪が赦されたのです。

この傷は、もちろん、わたしたちの存在そのもの、原罪から来る傷です。

イエスの十字架による傷から流れる血がわたしの罪を赦してくださる。

わたしの心の傷をいやしてくださるということでしょう。

では、罪が赦されて心が癒やされると身体の病も必ず癒されるのでしょうか。現実には、身体の病が必ず癒されるとは限らないと思います。

聖書にはこのようなイエスの言葉があります。

ヨハネの福音書第14章13節「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」

この聖句が言おうとすることは、本来、キリスト者は神の御心がこの地上になることを祈るべきで、決して私達の私利私欲を祈れば叶えると言っておられるのではないということでしょう。

だから、その祈りが神の御心に沿った祈りであれば必ず叶えてあげようと言う意味だと思います。

ですから、たとえわたしが病に冒されて癒しを祈って癒されなくても、それは神の御心で、わたしにとってそれが最善のことだと思いますから、失望することはないと思っています。

ただ言えることは、追い詰められて、必死になって祈れば叶えられることがあると思うのです。神様がちょっと軌道修正されるということです。

どちらにしても、イエスを賛美し、イエスの言葉を心に留めて生きる。

これが大事なのでしょう。そうしていれば、わたしたちの必要を御存じの神様ですから、癒しが必要であれば、癒しは自ずと与えられると信じます。

マタイの福音書第6章8節に「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とある通りです。

癒されたら、それがたまたま癒されたのか、神の働きによるものかはわからないこともありますが、神は、それを神の働きによると信じる信仰を試されているのかもしれません。

なにしろ、この世の出来事のすべては神のご計画によると思いますから、それが積極的な介入であれ、消極的な自然法則に委ねた介入であれ許されて起こっていることには間違いがないのですからね。

どちらにしても、わたしたちは被造物です。造られたものならば造られた目的があるはずですから、創造主のご計画に沿って生きるのが最善であるのは確かです。自分の力で、自分の能力で生きていると思ったら大間違いです。

わたしは自分自身の信仰に不満を持つことがあります。

でもね、よく考えれば、今の自分の信仰は、ぬるま湯であろうが、生煮えであろうが神様が下された信仰です。
だから、わたしは他人の信仰、あるいは賜物をうらやむことをしないようにしています。

うらやんでも仕方がないことです。これは、一種のわたしの神に対する開き直りです。

病気の癒しの賜物を与えられれば素晴らしいことだと思いますが、賜物が与えられなくても病気になった時には、自分が信じている方に、どうか癒やしてくださいと祈ることができますから有り難いことです。

誰でも、追い詰められて神様に祈ることがありますが、具体的にその神様がどのような方かをご存じでない方が多いと思います。

そのような信仰を持てるのも、神様の御心次第で、人間の努力でどうこう出来ることではないと思うのです。
だから信仰も自然体で良いと思うのです。

もう一つ、罪が赦されたことが客観的に分かる現象があります。

「異言」(いげん)です。クリスチャン以外の方には、このことはおそらく理解できないかもしれませんが、ちょっと書いてみます。

わたしは異言を語れないのですが、語れることは素晴らしいと思います。

しかし、異言を語れない人も大勢います。語れない人がそれだけ信仰的に不十分だとは思っていません。

どこかで読みましたが、尊敬する20世紀の巨人と言われるキング牧師とマザー・テレサとガンジーですが、三人とも異言は語らなかったということです。

異言を語れるか否かとその人の信仰とは別物だと思います。

異言は聖霊がその人に働かれている「しるし」であることには間違いがないのですから、語る人はそのことに感謝すればよい、それはそれで良いと思うのです。

異言がほしければ祈りなさい、必ず得られるという方もおられますが、わたしは必ず得られるとは思っていません。

異言はあくまで賜物です。賜物なら異言を語れる人もあれば語れない人があって当たり前です。

なお、「異言」(いげん)はキリスト信仰における不思議な現象の一つですが、ここでの詳しい説明は省きます。

わたしが洗礼を受けた教会は、ペンテコステ派の教会でしたから、そのことはわたしにとって身近な出来事の一つです。

「異言」を語れると言うことは、聖霊がその人に降られたことのしるしです。

それは、第三者が客観的に誰にでも分かる現象ですから、言葉による説明の必要がない明確なしるしです。
もちろん、罪が赦されているしるしでもあると思います。

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