「二人の息子」のたとえ(マタイ21章)
今回はマタイの福音書21章28節から32節を読みます。
この記事はマタイ単独の記事です。共観福音書に並行個所はありません。
●28節.「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
●29節.兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
●30節.弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
●31節.この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
●32節.なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
イエスはエルサレムの神殿で「商人を追い出す」という激しい行動をされましたが、それに対しイエスに強い殺意を持った勢力(マタイの福音書では祭司長たちや長老たち)が、イエスの行動への不信から詰問しますが、それに対しイエスは三つのたとえ話(「二人の息子」のたとえ、「ぶどう園の農夫」のたとえ、「婚宴」のたとえ)で答えられます。
このたとえ話は、その三つのたとえの最初のたとえです。
二番目の「ぶどう園の農夫」のたとえはマルコの福音書にもあります。
この最初の「二人の息子」のたとえはマタイの福音書だけの独自のものです。三番目の「婚宴」のたとえは、ルカの福音書にはありますがマルコの福音書にはありません。
最初の「二人の息子」のたとえ(マタイの福音書21章28節から32節)は、神の国に先に入るのは「あなたたち」(祭司長や律法学者たち)ではなく、「徴税人や娼婦たち」であると指摘されています。
これは、イエスの福音告知そのものです。
このたとえの内容を見てみますと、二人の息子の「兄」は徴税人や娼婦たちで、「弟」は祭司長や律法学者たちのことでしょう。
神は二人のところに来て『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と命じます。ところが、二人の対応が違うのです。
兄はいやですと答えましたが、思い直して出かけました。弟は、承知しました、と答えて出かけませんでした。
弟に象徴される祭司長や律法学者たちは律法を行うことに熱心で、神が求められることに「はい」と答えていました。
ところが、神が洗礼者ヨハネを遣わして実際に律法の実行を求められると、ヨハネを信じないで拒否しました。
それに対して、兄を象徴する「徴税人や娼婦たち」は律法を守れなかったのは律法を知らなかった、あるいは、神がしなさいと求められてもできなかったからかわからないが、洗礼者ヨハネが現れて正しい道を示すと、ヨハネを信じて今まで律法を守らなかったことを悔い改めて水でバプテスマを受けました。
神の国に先に入る者はこの「徴税人や娼婦たち」だというのです。
なお、この「先に入る」という表現は、順序を示すのではなく先に入って独占することの意味もある(J・エレミヤス)ということですから、徴税人や娼婦たちだけが先に入って、律法学者たちは入れないと言っているのでしょうか。
わたしには分かりません。
どちらにしても、31節が結論でしょうね。神の国に入れるのは、律法が守れるかどうかは関係ないのです。
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