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2017年12月27日 (水)

人々はしるしを欲しがる(マタイ16章)

今回はマタイの福音書第16章1から4節を読みます。

共観福音書の並行個所はマルコの福音書8章11節から13節、ルカの福音書第12章54から56節 です。マタイの福音書12章に同じ副題の個所がありますね。ここでは16章を読みます。

マタイの福音書第16章

●1節.ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
●2節.イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、

●3節.朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。

●4節.よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

ユダヤ教の一派であるファリサイ派とサドカイ派の人たちがイエスのところに来て(マルコの福音書ではファリサイ派だけですが)、イエスに天からのしるしを見せるように要求します。

これは、イエスのなされているしるしが神からのものかどうか試すためでしょう。ファリサイ派とサドカイ派の人たちには、神からきたものであるはずがないと言う思い込みがあったのでしょう。

4節の「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」という聖句は、ルカの福音書第19章29節にもおなじものがあります。

「ヨナのしるし」とは、三日三晩大魚の腹の中にいて地上に戻ってきたヨナの物語(旧約聖書ヨナ書2章)を指すのでしょう。

ヨナが大魚に食べられて大魚の腹の中で三日間過ごすのですが、三日目に主が命じられ大魚はヨナを陸地に吐き出したのですが、それは三日目に復活したイエスを指すしるしであったとしているのでしょう(マタイ12章40節)。

4節は、イエスの復活こそ究極のしるしであって、これを信じないならば、他のどのような奇跡もしるしにはならないと、ユダヤ人の不信仰を責めておられるのだと思います。

並行個所であるルカの福音書12章56節の「偽善者よ」というのは、群衆に対してというよりも、ユダヤ教指導者層に対して言われてのだと思います。

マタイの福音書第16章3節の「時代のしるし」とかルカの福音書第12章56節の「今の時」は、いずれも時を表します。

この「時」は時間の進む時ではなくカイロス、つまり神が決定的なことを行われる時のことを言いているのだと思います。

その決定的な神の時は今だと言われているのです。

それは、神が今イエスにおいてなされている語りかけで、終わりの日が到来していること、神の支配の時代が来ていることが、見えないのかと言っておられるのでしょう。

イスラエルの民は、神の民として多くの預言者を生み導かれてきましたが、今は神を見失い、もう、400年も預言が止み暗闇の中に埋もれていました。

もちろん、経済的にもローマの圧政下にあり、民は信仰的にも経済的にも閉塞状態にあったのでしょう。

メシアを求める気持ちは非常に強いものがありました。

そのような時に、イエスはこの世にこられてイスラエルの民に「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイの福音書第3章2節)と呼びかけました。

終わりの日が到来したということは、神の裁きが近いことを表します。

神の人類救済史において今がどのような時(カイロス)であるかも自覚しないで、神を見失い、罪に埋もれ霊的に盲目になっていることを指摘しておられるのでしょう。

結論として、イエスはファリサイ派やサドカイ派、それだけでなく一般の群衆でも、空模様や風向きから、明日の天気を読み取ることができるのなら、救い主を求める機運が高まっている今のイスラエルの時勢とこのわたしを見てこれから起こることを読み取ることができるはずだと言われているのでしょう。

イエスが来られたのは神の「しるし」なのです。
このイエスという神からの「しるし」を信じないのなら、外にどのような「しるし」を見せても、彼らは信じることをしないでしょう。

だからこのときイエスは、彼らの要求に応えてしるしを見せようとはされませんでした。

「しるし」といえば、この時はまだ実現していませんが、イエスは、イスラエルと人類の救いのために、ご自分を犠牲にして、つまり、十字架にかけられて死に、そのイエスを神は復活させて、神はわたしたちに大いなるしるしをおみせになりました。

イエスの死からの復活は、過去・現在・未来の全ての人々に対し、分け隔てなく与えられる救いの「しるし」なのです。

このことを証するために、神はイエスの御名による聖霊を弟子たちに注いで、今もイエスの言葉を信じる者の中で新しい命の創造のために働いておられるのです。

わたしたちは、今,目の前にイエスを見ることはできませんが、2000年前のイエスの復活をしるしとして信じることはできます。

それは、聖霊がイエスを信じようとする者に内住し、そのことを証ししてくださるからです。

「しるし」が先にあって信じる心がこれに続くのではなく、先に信じる心があって、「しるし」つまり、復活の奥義を知ることができるのだと思います。

聖書によれば、正しく復活の奥義を知るために「イエスの御名によって祈りなさいと」書かれています。

そして、そういう呼び掛けを出来ること自体が、聖霊の働きのしるしといえます(第一コリント12章3節)。

祈りを通じて働くイエスの御霊、聖霊は、人の想いをはるかに超えて働いてくださる。 それは神秘です。目には見えないけれども、必ずおられるのです。

クリスチャンには、その現実を体験して確信を持っている人がたくさんおられます。

したがって、ここの聖書箇所の「しるしを見せてくれたら信じるのに」と言う人は偽り者ということになります。

心から信じようとしない人は見ようとしないから、実際にしるしを見ても信じないからです。

そういう人には、イエスの御霊、聖霊も働きようがないのでしょう。

イエスの御霊、聖霊の臨在は、つまり、しるしは、分かる人には分かるけれども、分からない人には理解できない。そういう性質のものだと思うのです。

わたしは霊的に鈍感な人間です。この箇所はわたしのことを言っておられるようです。でも、これだけは自分の努力ではどうしょうもないのです。

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