安らぎを得られる(1)(マタイ11章)
マタイの福音書第11章28節から30節、マルコの福音書8章34節から35節、ルカの福音書18章16節から17節、ヨハネの福音書第12章25節を読みます。二回に分けて投稿します。
各福音書から御言葉を抜粋して、「安らぎを得られる」としてまとめてみました。
マタイの福音書第11章
●28節.疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
●29節.わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。
●30節.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マルコの福音書第8章34節から35節
●34節.…わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
●35節.自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
ルカの福音書18節
●16節.しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
●17節.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこの入ることはできない。
ヨハネの福音書第12章25節
●25節.自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
この世を生きると言うことは、まことにストレスがたまることです。
気が休まることがありません。
ストレスの原因は、人間の自己中心的性質から来るのだと思います。
あれもほしい、これもほしいと、その貪欲さにはすさまじいものがあります。
その上わたしたちは自分を他人と比較して嫉妬に苦しみます。
これでは心が休まらないのは当たり前です。
そのようにして追い求めて手に入れた幸福も、手に入れた瞬間からいつその幸福がなくならないか心配し始めるものです。
それはもう幸福が重荷となり始めているということです。
また、人は幸福をやっと手に入れても、今度は手に入れた幸福の程度をすぐに他人と比較します。比較すれば上には上があるからきりがない。
そして、その不安を打ち消すために、あるいはより以上の欲望を満たすために努力して、誰もがうらやむ幸福を達成しても、より以上のものがほしくなります。
とめどもない貪欲が人の心を支配し、やっと手に入れた安らぎも去っていきます。
幸福には満足はあるのでしょうか。欲を満たすことが幸福だとするならば、人間の欲には限界がないように見受けられます。
これでは、いくら欲を満たしても心の安定は見いだせません。
人がうらやむほどのおカネを持ち、巨大な権力を得ても、人はそれを守るのにストレスがたまり、心をすり減らします。そして、そのためにより罪を犯すのです。
このようなことは、誰でも分かっていると思うのですが、ひとたびその世界に足を踏み入れたら止められないのです。
そして、欲望の行きつくところが命の延命です。
せっかく莫大な財産を、権力を手に入れたから死んでしまってはどうしょうもありません。
少しでも長生きがしたい、人よりも長生きがしたい、時には不死を願ったりしますが、こればかりはままなりません。
人間は、生まれるときと死ぬときは自分の力ではどうしょうもありません。
それは、命は神様のものだからです。
イエスは言われました、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイの福音書第16章26節)
人間の本当に求めているのは安らぎで、真の安息だとイエスはよく知っておられました。
マタイの福音書第11章28節でイエスは、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」といわれました。
イエスの言われる安らぎは、一時のものではありません。その安らぎは何事にも動かされない、永遠の安らぎです。その真の安息をあなたに与えようというのです。
では、イエスはどうやってわたしたちに安らぎをもたらそうと言われるのでしょうか。
マタイの福音書第11章29節には、「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」とあります。
イエスご自身のくびきを負ってイエスから学ぶなら魂に安らぎが得られるのです。
くびきとは、一つの車を引かせるために2頭の牛の首のうしろにかけて2頭の牛をつなぐ木で作られたものです。2頭の牛がばらばらに違う方向に動くなら車は進まないのです。
2頭の牛がまるで1頭の牛であるかのようにひとつにするのが、このくびきの役目なのです。2頭の牛の力を一致して最大の力を発揮させるものです。
さらに、マタイの福音書第11章30節 を読むと、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とあります。
もちろん、一頭で担ぐよりも二頭で担ぐ方が軽いのは当然ですが、問題はわたしがその二頭の牛の一頭だとしたら後の一頭は、それは、イエスがわたしだと言われているのです。
わたしがあなたと共に、人生の重荷を同じ方向、同じ歩調で担いであげようと言われているのです。だからその荷は軽いのです。本当の安らぎ(2)に続きます。
« 受け入れる人の報い(マタイ10章) | トップページ | 安らぎを得られる(2)(マタイ11章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント