群衆に同情する(マタイ9章)
今回は、マタイの福音書第9章35節から38節を読みます。
共観福音書には並行する個所はありません。
●35節.イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
イエスがガリラヤでなされた働きについて、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と書いています。
また36節では、その活動の中でイエスは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と書いています。
この箇所を読むと、神はわたしたち人間を罪から救いだそうとされるのは、深い憐みからだということになります。
そして言われます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカの福音書6章36節)
そうです。神は、自らまず行動で示して、あなた方もそのようにしなさいと言われたのです。
●36節.また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
「飼う者のいない羊の群れ」のような群衆をご覧になって、深く憐れまれたとあります。
イスラエルの民は、神がおられて、その神に目的があって造られたことはわかっていますが、その神との関係が正常ではなかったので、歩むべき道もわからずさまよっていたのです。
イエスの時代のイスラエルの民は、生活に関わる経済や政治・社会に関わる問題など深刻な問題があり先行き希望のない毎日を送っていました。
人びとは精神的に疲れはてていました。
神との関係が正常ではなかったので、霊的に満たされず、御霊の実を結ぶことができなかったのです。
現在の日本は経済的には豊かになりましたが、やはり、精神的な病に悩む人たちが大勢おられます。精神的な病は霊の影響から来る病もあると聞いています。
人びとは経済的には富んでいても、精神(霊的)は病んでいるのです。
そういう意味では、現代人も羊のように弱りはて、打ちひしがれている人がなんと多いことか。
それらはひとえに、神から離反しているので、自分たちがどこからきてどこへ行くのか、なぜ生きているのかもわからないことが原因なのです。
仏教でいう、無常の世界をさまよっている状態を言っているのでしょう。
●37節.そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
●38節.だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
「収穫が多い」というのは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆が多いので、救いを求めている人、救いを必要としている人は多いと言うことでしょう。だから働き手がいれば救われる人も多い。
もちろん、この救いと言うのは社会的差別からとか経済的困窮からの救いではなく人の魂の救いのことでしょう。
魂の救いとは、天の国に導くことです。
このように救いを待つ人が多いのに導き手が少ない、そこでイエスは、働き手を送ってくださるように祈りなさい、と命じられているのでしょう。
現在においてもこのことは言えると思います。
もう一つ言えるのは、ここでの働き手である弟子たちが少ないと言うのは、イエスがおられた時代と言うよりも、この福音書を書いているマタイが置かれている時代を強く反映していると思うのです。
なぜなら、この福音書を書いているまさにその時、キリストの民はこれからイスラエル人以外の民への宣教と言う大きな世界を前にして、まだ小さかった自分達の共同体の民を見て「収穫のために働き手を送って下さい」と祈っていたに違いないからです。
この祈りは,代々のキリスト者に引き継がれて、福音は全世界に述べ伝えられることになります。
それでは、聖句にある「収穫」と「働き人」について蛇足ですが一言。
この語句の意味ですが、福音とは「神の国」のことであり、「神の国を伝える」ことと「福音する」こととは同じ意味だと思います。
イエスは、「収穫は多いが、働き人が少ない」と言われました。
「収穫」というのは実を結んだ穀物を刈り入れることです。
「実を結ぶ」というのは、パウロがガラテヤ人への手紙第5章16節から26節で言っている「御霊の実を結ぶ」ことと同じだと思います。
御霊の実を結ぶためには、イエスの御霊をその人の内に宿すこと、言い換えると、イエスと共に歩むことです。
イエスと共に歩む人は、聖霊の働きによって自然に御霊の実を結ぶようになるのです。
「収穫」は、「神のための収穫」で「人間のための収穫」ではありません。
だから、イエスは、収穫の主である父なる神に願い求めなさいと言われたのだと思います。
人間一人一人を霊的に成長、つまり、実を結ばせて下さるのは神だからです。
つまり、御霊の実を結ばせてくださるのは、父なる神と御子と聖霊の三位一体の神の働きで初めて可能だと言うことです。
人の能力や努力ではないのです。なぜなら、御霊の実を結ぶことは、新しい命の創造だからといえます。
ヨハネの福音書第4章36節に「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」、同37節に「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」とありますから、御言葉の種を蒔く人とこれを刈り取る人とが別にいると言うことで、しかもみ言葉を蒔く人と刈り取る人が生きる時代が違うと言うことではないでしょうか。
だから今種をまいても収穫は今すぐにできることではないのです。
収穫は、種を蒔いた人がこの世を去った後かも知れません。
イエスを信じて死んでいく人もいますが、最終的に収穫されるのは(天国に行くのが確定するのは)終末の裁きの時を指していると考えられます。
だから、今洗礼を受けてクリスチャンになったからといって自動的に天国行きが確定ではないと思うのです。
どんなにクリスチャンの数が多くても、その人たちが神の目から見て本当に実を結んでいるかどうかは、終末の時に問われるのではないでしょうか。
そして、クリスチャンが問われるのは、霊的成長でしょう。
教会に通っているからではなく、沢山献金をした人でもなく、奉仕をした人でもなく、霊能の賜物を持っているからでもなく、異言を語れるからでもなく、聖書の知識を多く持っているからでもないのです。
問題は御霊の実を結んでいるかどうかだと思うのです。
その御霊の実は、先にも書きましたが、ガラテヤ人への手紙第5章16節から26節の御霊の実だと思います。
すなわち、同第5章22節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、」同23節「柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」
最終的な収穫はこの世の終末の時(裁きの時)を指していると思います。
誰が見ても御霊の実がついていると思われる人でも、その人が神の目から見て本当に実を結んでいるかどうかは、終末の時(裁きの時)が来なければわからない。
それには、次の聖句があります。
マタイの福音書第7章21節「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
同22節「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」同23節「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
今現在、すでに多くのクリスチャンがいます。
わたしも含めて、裁きの時には一人一人が、霊的に成長しているかどうかを問われると思うのです。
わたしたちが見て御霊の実が実っていると思われる人でも、神の目から見ればどうか分かりません。
多くの賜物をもらったのに神のために活用せずに地中に埋めている人もいるでしょう。もちろん、賜物を多く貰った人ほど多くの御霊の実が求められるのではないでしょうか。
わたしは教会で、一度信じたら何があっても天の国に行けると教えられました。でも、わたしは思うのです。上記のような聖句を読むと、そうとも言えないのではないかと。
裁きの時には、御霊の実が実っていないクリスチャンもいるから、イエスも上記のように言われたのだと思うのです。
だから、天の国には一度信じたら無条件でいけるのではなく、クリスヤンでも裁きの時には神の目で見てもう一度吟味されると思うのです。
未熟であれば、再度訓練を受けて神の国に招かれるということもあるのではないでしょうか。
このような見方は、間違っているでしょうか。
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