洗礼者ヨハネ、教えを宣べる(マルコ1章)
マルコ福音書第1章1節~8節
●1節.神の子イエス・キリストの福音の初め。
マルコの福音書は、四福音書の中で最も早く書かれた福音書です。
通常著作家は文書の最初の言葉にその文書を書いた目的についての思いを込めて書き始めると聞きます。
著者マルコもきっと最初の切り出しの言葉に思いを込めて書いたでしょう。
その思いとは、福音、そう、人類救済の歴史、良き知らせです。
ことはとてつもなく壮大で、我々の想像を絶する物語です。
それは、人類救済の福音の初めです。福音書著者は、それを文書の形で、後世に伝えるために筆を執ったのでしょう。
イエスと3年間寝食を共にして見聞きし体験したこと、驚くべき出来事をどのように伝えればよいのか。
書きたいこと、伝えたいことは山ほどあるがそのすべてを書ききれない。
しかし、全く新しい事態の始まりですから、その思いをどのように表現すれば良いのか、おそらく悩んだことでしょう。
●2節.預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
この「預言者イザヤの書にこう書いてある」の旧約聖書の個所は、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(旧約聖書イザヤ書40章3節)だと思います。
また、旧約聖書マラキ書第3章1節では「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」と預言されています。
これらの預言が指し示すことは、洗礼者ヨハネの宣教がイエスの福音活動の先触れだということです。
洗礼者ヨハネはそのような預言を成就する者として現れました。
従って、洗礼者ヨハネの活動は神の人類救済の御計画によるものとなります。
この1章1節の告白により、洗礼者ヨハネの宣教が、旧約聖書の預言の成就と意義づけられ、その洗礼者ヨハネによって出現が予告されるイエスが、旧約聖書の全歴史を意味する人類の救済史と結ばれることになると思います。
イエスも洗礼者ヨハネの宣教を神からのものであると認め、洗礼者ヨハネを預言者の中で最大の者、すなわち預言の流れを完成、つまりイスラエルの歴史の中で最後の預言者であるとされました。
そのことは、イエスの言葉、マタイの福音書第11章11節の「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」で確認されています。
イエスが洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受けられることによって旧約聖書のメシア出現の預言がイエスの出現と結びつけられる事にもなるわけです。
メシア出現の預言で代表的な個所は、イザヤ書53章です。預言の人物によって、人類に救いがもたらされる。そのよき知らせがイエスであると著者マルコはここで言いたかったのだと思います。
●3節.荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
この個所は、旧約聖書イザヤ40章3節と同じで、つまり、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」です。
この聖句は、メシアの到来を告げ、神の最終的な審判が迫っていることを伝えています。
終末(終わりの日)の到来を告げる預言者の叫びですね。神が来られるときは、人類の歴史の終末の時です。その時に裁きがあると言うことですね。
もちろん、終わりの日はイエスがこの世に来られた時に始まり、創造の御業が始まりましたが、その創造の御業はまだ終わっていない。
裁きと新しい天地と、新しい人類の完成に向かって現在進行形で、それらが完成した時が創造の御業の完成時ということでしょう。
●4節.洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の許しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
「洗礼を述べ伝えた」は、罪の許しを受けるために、洗礼者ヨハネが荒野に現れて、罪の告白と悔い改めのしるしとして洗礼を受けることを求めます。
洗礼者ヨハネは、救われるために、つまり、罪を悔い改めることによってその日に備えなさいと説いたのだと思います。
悔い改めとは、過去の罪を悔い改めて今までの生き方から向きを変えること。新しい人類の創造のご計画の一環です。
ペテロは、悔い改めなしには、罪の赦しはありません、といっています。
●5節.ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪(原罪でない罪、様々な罪)を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
●6節.ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
5節の「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆・・」、は、おそらくユダヤ全地方の人々とエルサレムの住民のほとんどが、ヨハネのもとにきて自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのでしょう。大変な規模です。
それだけイスラエルの住民は終わりの日の裁きを意識していたのでしょう。
ローマの圧政の下、乱れた社会環境の中で世の終わりを強く意識していたと思うのです。
神の救いにあずかるために、律法を守りたくても守れない人が多かったでしょうから、そういう人たちはとくに、洗礼者ヨハネの罪を悔い改めて洗礼を受けなさいと言う言葉にすがるような思いで救いを求めたと思います。
●7節.らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
洗礼者ヨハネが、自分よりも力のある方が来られると言っているのです。
「履き物の紐を解く値打ちもないということは、その方は次元をはるかに越えていると言って言っているのです。
次元の違う存在、それは、最後の預言者、女から生まれた者のうちでもっとも偉大な者、旧約聖書の預言によればメシアです。
●8節.わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
「わたしは水であなたたちに・・その方は聖霊で・・」と言って、洗礼者ヨハネはここで次に来る方と自分の違いを告白しています。
自分は水で洗礼を与えるが、次に来る方は聖霊で洗礼を授けると予告しました。
この洗礼者ヨハネが予告した聖霊による洗礼と言うのは、旧約の時代のように聖霊が特別に選ばれた人に与えられるのではなく、イエスを信じ、罪を悔い改めた全ての人に対し与えられるということでしょう。
わたしたちがイエスの教え、福音を信じると、聖霊が降り信じる者に内住されます。
それを聖霊による洗礼と言い、その聖霊はわたしたちを悔い改めに導き、わたしたちを根底から変えて下さる。変えるのですから、そこには力が働いているのです。そう、聖霊の力が働いているのです。
ですから、福音の言うのは神の力とも言えます。
そうして、わたしたちの内で新しい人間の創造の働きが始まるのだと思います。古い性質をもった人間を根底から変えて下さるのです。
そうです、そのような事態は創造ですから、親から子、子から孫と人間から人間を生みだす古い命の誕生ではなくて聖霊による新しい命の創造なのです。
洗礼者ヨハネが、聖霊による洗礼を予告したと言うことは、メシアが来られると父なる神と人間との交わりが回復されると彼は預言していることになると思います。
同時に、それはイエス・キリストの登場を予告していることになります。
さて、ここで洗礼について調べてみましたので書いてみたいと思います。
ヨハネは自分の洗礼を「水の洗礼」と言っています。
水の洗礼は、浄めの水で洗う慣習とも言えますが、すでにユダヤ教で行われていたものだと言うことです。
ただし、洗礼者ヨハネの水による洗礼は、それまでの、つまり、特別に選ばれた者だけが受ける洗礼ではなく、階級や性別や職業に関係なく、イスラエルのすべての民に与えられる「罪の赦し」の洗礼であったということです。
また、ユダヤ教の一派であるエッセネ派も水の洗いによるきよめをしていたと言うことですが、それは繰り返しおこなう必要があったそうです。
それに対して、洗礼者ヨハネの場合は、ただ一度の悔い改めとそれに伴う一回限りの洗礼で良かったようです。
それは、差し迫った終わりの日のメシアの到来による神の裁きに備えるための「悔い改めと罪の赦し」の洗礼だったからだと思います。
洗礼者ヨハネは、自分の施す洗礼が水によるものであるのに対して、自分の後から来るメシアの授ける洗礼を聖霊による洗礼と呼んでいます。
現在でも、キリスト教会では信仰告白した者が水による洗礼を受けることにより正式の教会員となりますが、同時にあるいは前後してイエスを信じたら当然賜物として聖霊を受けるとされています。これは神の約束です。
水による洗礼の聖句は、マタイの福音書第28章19節に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、・・」とあります。
聖霊による洗礼は、使徒言行録第2章38節に次のようなペトロの言葉があります。
「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
イエスの言葉を信じ、罪を悔い改めれば賜物として聖霊が与えられるのです。これは神の約束ですから必ず下さるのです。
同第2章39節「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」とある通りです。
このように、聖霊は賜物でイエスの言葉を信じて罪を悔い改めたら神の約束で必ず下さるのです。水による洗礼は条件ではありません。
それでは、聖霊による洗礼と言うのは、どのような意味を持つのでしょうか。
聖霊は、神の霊です。
イエスの御霊とも言います。なぜなら、イエスが天に昇られた後、イエスに代わりイエスの言葉を述べ伝える者の弁護者としてこの世に降られたからです。
聖霊がこの世に降り、その聖霊を通じて、神は全く新しい時代を創造しょうとされている。
イエス・キリストというメシアの来臨を機に、全く新しい「イスラエルの民」、つまり、イエスの言葉を信じる、福音を信じる民、キリスト者が生まれることになるのです。
洗礼者ヨハネは、おそらくそこまで見通していたと思います。
イエスがこの世に来られて、終末は到来しましたが完了していない。
イエスの出現により約2000年前に終末は到来したが、終末はこの意味で、終わりの始まりでもあると言えます。
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