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2017年12月28日 (木)

ペトロ信仰を言い表す(1)

今回はマタイの福音書第16章13~20節 を読みます。

共観福音書の並行個所は、マルコの福音書8章27~30節、ルカの福音書第9章18節から21節です。

このペトロが信仰を言い表す出来事があったのは、マルコの福音書8章27節で「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。」とありますので、イエスと弟子たちの一行はいよいよガリラヤを退去し、これから最後の目的地エルサレムに行こうとする旅の途上であったと思います。

いよいよ最後の時を迎え、イエスは弟子たちにご自身に関する最も重要な秘密を明白な言葉で教え始められたのだと思います。

それが、マタイの福音書16章13節あるいはマルコの福音書8章27節の言葉なのでしょう。

それでは、マタイの福音書を中心に、(1)では16章13節kら16節までを読んでみたいと思います。

●13節.イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

●14節.弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

イエスは、敵対するユダヤ教指導者層に取り囲まれてのガリラヤでの宣教活動を終わり、弟子をつれてユダヤ教指導者層のいない静かな北方の異教の地に行かれます。

そのような静かな地に行かれたのは、これからわが身に起こる十字架の意味を弟子たちに教え理解させる目的があったので、それに備えるために、静かな時間を持とうとされたのではないでしょうか。

この後の記事を読みますとイエスは、マルコの福音書第16章21節で、これからご自分に起こることを話されています。

「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあるからです。

したがって13節のイエスの問いは、弟子たちがイエスのことをどのように理解しているかを知るために尋ねられたのでしょう。

弟子たちは人びとがイエスのことを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」、「エレミヤだ」、「預言者の一人だ」などと言っていると報告します。

●15節.イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

●16節.シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

その答えに対しイエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と尋ねられます。

イエスの問いにシモン・ペトロが代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と答えます。

マルコの福音書の並行個所もマタイの福音書とほぼ同じです。

ただ、マタイの福音書はペトロの答えとして「生ける神の子」という言葉を付け加えています。

この言葉に疑問があります。なぜなら、もし、「生ける神の子」というのが復活されたキリストを指すのならば、まだイエスが受難にあっていない、また復活されていないこの段階でペトロは、イエスを復活されたキリストであると告白することはないと思うからです。

それにペトロもほかの弟子もこの段階では、これからイエスの身に起こる十字架と復活の奥義を理解していなかったと思うからです。

その出来事は、弟子たちにとって想像すらできない出来事であったであろうと思うのからです。

それに弟子たちは、この段階では聖霊体験もしていないからです。聖霊はイエスが復活後50日目にこの世に降られたのです。

弟子たちは聖霊体験があって初めて十字架の奥義を本当の意味で理解できたと思うからです。

したがって、ぺトロがイエスをメシア、「生ける神の子」と言ったのは、当時のユダヤ人のユダヤ人のためのメシア待望観の範囲内で、イエスをメシアであると言ったにすぎないと思うのです。

そういう意味で、マルコの福音書第8章29節の「そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」」は、イエスをメシアと言うだけで、復活者されたイエスをイメージして言っているのではないと思います。

また、このペトロのいうメシアも、全人類の救い主ではなく、ユダヤ人のための救い主と言う意味で言ったのではないかと思うのです。

ユダヤ人のためのメシア、神から油を注がれたメシアとは、イスラエルを異教徒の支配から解放し、栄光の地位に上げる救済者のことです。

この後イエスはペトロのメシア観を訂正するかのように、ご自分がそのような「メシア」ではなく、苦しみを受ける「人の子」であることを明白に教え始められます。

ところが、次のイエスの言葉をみるとおかしくなるのです。

同17節、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ・・・」

マタイはペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白の直後にこのイエスの言葉を置いています。

「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言う言葉は、天の父がペトロに話されたのだから、明らかにイエスのペトロに対する祝福の言葉です。

イエスはペトロが復活したキリストの奥義を分かっているものとして語っているようです。

そうすると、マタイの福音書ではペトロがイエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白(同16節)、イエスがペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われて祝福(同19節)、ペトロがイエスの十字架死と復活を予告されたのを否定して叱責(同22節から23節)となり、マタイの福音書16節および17節から19節と22節から23節とが矛盾することになります。

マタイの福音書16章22節から23節のペトロがイエスの十字架死と復活を予告されたのを否定したのは、頼りにしている師が殺されると聞いて思わずペトロの人間性(イエスを師として全面的に信頼して仕えているのに、その支えがなくなればだれでも不安になります。)が表に出てしまったのでしょうか。

それとも、福音書はイエスの伝記ではなく、福音書全体で、地上のイエスの物語によって、神の子キリストを世界に告知しょうとする文書だからそのように解釈することが必要ではないでしょうか。

だから、福音書が物語るイエスの姿には、地上のナザレの人イエスの姿と、そのイエスが復活したキリストであるという告知が重なって書かれているということになります。

ただ言えることは、何度も書きますが、福音書全体からみれば、弟子たちが神の子イエスの奥義、すなわち、十字架死と復活の意味を真に理解するのは、イエスが天に昇られた後、聖霊降臨があって初めて理解できたのだと思います。

つまり、聖霊の助けがなくては真にイエスの十字架と復活の意味は理解できなかったはずです。

この福音書が書かれたのはイエス十字架後40年以上後のことですから、その時は当然イエスの十字架と復活と聖霊降臨が実現していて、著者はそれらを現実に体験したうえで書いている、つまり、それらの出来事の奥義を知った上で、神の子キリストを世界に告知しょうとして書いた文書と言えるからです。

福音書はイエスの伝記ではありません。

そういう意味では、マルコの福音書の記事のほうがこの場面ではイエスの地上の出来事を比較的忠実に(たとえばイエスのペトロ叱責場面など)書いているのではと思うのです。

解説書によれば、マタイは、ペトロ祝福の場面を挿入することによってこの場面を、イエスをキリストとするエクレシア(この福音書を生みだした信徒の集団)の信仰告白の場面にしているのではないかということです。

歴史的なイエスの出来事の中にそれを入れたので矛盾が生じたのでしょう。

福音書が書かれた時代の要請で、ペトロを擁護することが必要であったのかもしれません。

ルカの福音書は、ペトロがイエスからサタンと叱責される箇所を省略して、ペトロを擁護し、文書が矛盾しないようにしています。

なお、そのようにむつかしく複雑に考えずに、弟子たちはこの福音書を書いているときは、イエスがなされた驚くべき奇跡を体験していましたから、単純に畏敬の念を抱いてイエスが地上におられた当時のことを書いている福音書の上でもイエスを「神の子」と書いたのかも知れません。
何も特別な意味はなかったということです。

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