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2017年12月23日 (土)

魚をより分ける譬え(マタイ13章)

今回はマタイに福音書第13章43節・47節~50節 を読みます。

共観福音書の並行個所はありません。

●43節.「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

●47節.また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。」

●48節.網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

●49節.世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、

●50節.燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

この「魚をより分ける」たとえは、「世の終わり」には正しい者と悪い者が厳しく選別されることを語っていると思います。

聖書はわたしたちにサタンが支配する、罪に沈むこの世ですが、その中でまだ選別されずに隠されている「正しい人達」のグループに留まるように教えています。

別に書きますがこの正しいと言うのは、キリスト教会に通っているから正しく、キリスト教会に通っていないから正しくはないと言う意味ではありません。

著者マタイは最後に「父の国で太陽のように輝く」のは「正しい人達」だと(43節)言っています。

ここで注目すべきことは、父の国で太陽のように輝けるのは「正しい人たち」であると書いてあることです。

イエスを信じる信仰を持つ人たちとは書いていないということです。

罪から救われるのは信仰者だけではないのです。信仰者も含めて、神の目から見て正しい人が救われるのです。

世の終わりの裁きの時には、「善い魚」と「悪い魚」とにより分けられて、悪い魚、つまり、要らないものは捨てられるのです。

魚の善し悪しは置いといて、人間の善し悪し、つまり、正しいか正しくないかはどこで決まるのでしょうか。
もちろん、人間の目ではなく神の目で見た善し悪しでしょう。

わたしたちが見る人間の善し悪しは、お金とか財産を沢山持っている、家を建てた、学歴、会社の肩書、世間的な名誉とか地位です。

わたしたちはこれらの価値あるとされるものを少しでも他者より多く持つとか他者より優れていることを望みます。
世間の価値観と言うのは、聖書では世間はもともと悪魔の支配する場ですから、悪魔の価値観で人の善し悪しが決まると言う前提があります。

さて、神から見た人間の善し悪しは何を基準にするのでしょうか。

それは、聖書の神は、天地万物の創造主でありますから、その創造には何らかの目的があるのは当然です。目的のない創造などありません。

だから、聖書の神は目的があって人間を創造されたと思います。

そのように考えると、人間の善し悪しの基準はその人の生き方がその創造の目的に沿っているかどうかだと思うのです。

クリスチャンは、よくあるがままに生きていればよいと言われます。

そう、造られたまま自然体で生きればよいということです。

それは聖霊の導くままに自然体でということだと思いますが、その聖霊は創造の目的に沿って常に働かれているのですから、わたしたちはその働きに呼応して生きることを求められていると思うのです。

もちろん、障害があるとか、また、病の床にあるとか、恵まれた環境にあるとか、貧しい環境にあるとか置かれた場の環境は人それぞれ違いますが、そのような環境にあるのも神様の御心ですから、その中で助け合いながら、出来ることを求めて生きることを望んでおられると思うのです。

神の御霊、聖霊が創造の目的のために働いておられると言うことは、わたしたちをもって何か新しいものを創造しょうとされていると言えます。

それは前向きで動的な働きです。聖書が語る神様は、どこか遠い空の上で鎮座しておられる神様ではないのです。

わたしたちは神の子であるイエスの言葉を信じなさいと言われています。

神の霊、聖霊はわたしたちに信じるように働きかけておられます。

その働きの目的は、わたしたちを創造の目的に沿って生きるように働きかけておられるのです。

わたしはその働きを受け容れることが信仰を持つと言うことなのだと思うのです。

イエスはわたしたちにいろいろと命令されています。命令ですよ。

命令はいやおうなく従わなければならないのです。

それは人間以外の動物にはできないことです。

わたしたちがあるべき姿は、マタイの福音書5章の「山上の説教」に書かれていることだと思うのです。

現実的にとてもできないことばかりが書かれていますが、イエスは「神には何でもできる」と言われていますので、聖霊の働きに委ねれば今困難と思えることもやがて出来るようになりますよと言われているのです。

また、イエスはマタイの福音書22章39節の「隣人を自分のように愛しなさい」ともいわれました。

その隣人についてイエスは次のように言われました。

あ、そのまえにこの「隣人」というのは、自分に助けを求めている人のこと、「自分のように」とは、無条件にと言うことでしょう。

イエスは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタイの福音書第5章46節)

「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」(同47節)

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(同48節)、と言われています。

いくら隣人を愛していると言っても、自分を愛してくれる者を愛してもそれは誰でもがすることで当たり前のことです。

そうしたからと言ってどれだけその人の値打ちになるのだろうか、ということです。

結論は、そのようにして、人間は神の働きを受けて神と一緒に新しい人間に造り替えられると言うことではないでしょうか。

聖霊の助けを借りれば自分を「新しい人間」に造り替えることができると言われているのです。それが、動物と人間の違いだと思います。

パウロは、その生き方を、信仰と希望と愛に生きると言っています。

それが、創造の目的に沿った正しい生き方だということです。

どうすれば、そのような生き方ができるのかと言いますと、弟子達がイエスに、とてもできそうでないことを言われて、「それではいったい誰が救われるのですか」と言った時イエスは「イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコの福音書第10章27節)と答えられました。

そう、神にはできる、聖霊と共にあればできると言われているのです。

神から離反したままでは、悪魔の支配下にあるままでは、とてもできないということです。

神はわたしたちを罪の中(創造の目的から外れているので)から救おうとされているのです。

休まずたゆまずそういう働きをされているのですね。

人間はそのことに気がつかなければいけない。

でもね、人間はアダムの時代からどんどん神から離れてしまいましたから、もういまや神がおられないことが当たり前の生き方をしています。

だから、神の存在に気付くこと、それさえにも神ご自身の働きが必要ということなのです。

そういう仕事をされているのが、復活のイエス、つまり、神の御霊、聖霊なのでしょう。

神の国運動(神の支配の告知)はイエスによって始まりました。

その運動が終わるまで、神は働いておられる。その働きの中心におられるのは三位一体の神の三位格である聖霊です。

聖霊はイエスを信じる者一人一人に内住し、その人を導き、造り変えて創造の目的を完成させられるのだと思います。

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