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2017年12月 4日 (月)

イエスの仲間であると言い表す(マタイ10章)

今回はマタイの福音書第10章32節から33節を読みます。

共観福音書の並行個所はルカの福音書第12章8節から12節です。

●32節.「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」。

●33節.しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。

32節の「わたしも・・言い表す」と33節の「わたしも・・知らないと言う」は未来形ということですから、終わりの日の終末の審判を語られているのでしょう。

33節の「知らないと言う者」は事実でないことを仮定して語る言い方ですから、福音書記者マタイは、イエスを拒むようなことはないはずだが、もし拒むようなことがあれば、という気持ちで書いたのでしょう。

「イエスを知らないと言う」というのは、イエスのことについて無知であるという意味ではなく、自分がイエスと何の関わりもないと、イエスと自分の関わりを積極的に否認することを言っているのでしょう。

なお、32節の「わたしも・・言い表す」は、ルカの並行箇所では「人の子も・・言い表す」となっています。

ここは「イエスの仲間であると言い表すかどうか」を問われています。

背景はおそらく、キリスト教徒への迫害が激しく命さえ脅かされる状態であるのでしょう。

そのような状況下で、死をも恐れずイエスを告白する者はイエスと共に神の国に受け入れられ永遠のいのちを受けるのです。

迫害に屈してイエスを拒む者は父と共におられるイエスから拒まれて神の国に入ることができないという、励ましと警告の言葉だと思います。

マタイがこの福音書を書いたときには、まさにイエスを受け入れるか拒むかという一点が、命がけで争われていたのでしょう。

でもここでは、イエスを認めるか否認するかどうかが問題で、信仰を告白するうえで最大の問題であるイエスをどのような方として告白するのかということは問題になっていません。

告白については、迫害の場における対応についてのマタイの福音書第10章19節から20節が参考になるので書いておきます。

「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」

イエスの名のゆえに苦難を受ける事態にあるとき、神の霊がもっとも力強く働かれるのです。

迫害の場は、神が世界に証を立てられる場であり、弟子はその証を立てられる聖霊の器(告白する者)となるのです。

聖霊は、何事においても究極の場でもっとも激しく働かれるのです。

なお、共観福音書の並行箇所でマタイの福音書になくてルカの福音書にあるのは、ルカの福音書第12章10節の「人の子の悪口を言うものは皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」です。

このルカ12章10節の「聖霊を冒涜する罪」というのはどのように考えるかむつかしいところがありますが、結論的に書きますと、イエスが地上におられる時にイエスの言葉に反対したことは、イエスを十字架で殺したことを含めて赦されるが、それに対して、イエスが死から復活され、聖霊降臨があった後、つまり、弟子たちが聖霊の力により福音を宣べ伝える事態になったときに、聖霊は弟子たちの口を通して福音を聴く者に直接イエスを証しすることになります。

その働きを受けても、イエスが復活者キリストであると告白することを拒む者は、神の最終的な救いの機会を拒むことになり、もはや赦される機会がない、ということでしょうか。

神は終わりの日に聖霊をこの世に送り福音を告知するのですが(イエスがこの世に来られてその終わりの日が始まったということ)、この聖霊による福音の告知はわたしたちを救いに与らせる最後の手段と言うことでしょう。

もちろん、イエスを十字架で殺したことまでは赦されるということですから、これは同時にイスラエルに対する最後の呼びかけでもあると思うのです。

また、ここで問題になっている言い表す場は、マルコでは「だれでも人々の前で」となっていますが、ルカでは「引き渡されるときは」となっていますから、ここの箇所が激しい迫害の中で書かれたものとすれば、やはり、人々の前でというのは、迫害する人々の前で、とくに法廷でという意味に取りたいと思います。

それでは、誰に対して書いているかですが、ルカは「引き渡されるときは」となっていますから、迫害を受けて法廷に引き渡されるイエスの弟子たちに対して書いているのは明らかです。

マルコは迫害のことは何も書いていませんから、対象を一般化させて「だれでも」となったのでしょう。

マルコの方がイエスの本当の言葉に近いと思いますがいかがでしょうか。

それに、33節の「人々の前でわたしを知らないと言う者」というのも、先に書きましたが、イエスのことが無知というわけではなく、知りながら自分がイエスと何の関わりもないと積極的に否認する言葉と解釈したいと思います。

したがって、イエスに関心がないとか、よくわからないままイエスを知らないといった人は含まれないのではないでしょうか。

いわゆる確信犯のみが対象かと思います。

迫害する人々の前で、とくに法廷で、敵意にさらされて自分がイエスの仲間であると認めることは、自分もイエスと同じように社会の敵意にさらすことになり、それは心の中だけの問題ではなく、社会に生きるその人の人生のすべてをかけての在り方の問題となります。

弟子たちがそれを恐れて自分とイエスの関わりを否定するのであれば、イエスを信じて従う弟子としての実際の歩みは成り立たないし、キリスト教は歴史の中にとっくに消えていたことでしょう。

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