平和ではなく剣を(マタイ10章)
今回はマタイの福音書第10章34節から39節を読みます。
共観福音書の並行個所はルカの福音書12章51節から53節 ・14章26節から27節です。
●34節.「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
イエスがこの世に来られたのは、平和ではなく剣をもたらすためである、と言われました。
ということは、戦うためにこの世に来られたのです。戦う相手は悪魔であり、悪魔に支配されたこの世ですから、それは、悪魔の支配するこの世に神の支配がはじまったということでしょう。
悪魔の抵抗は激しく神の支配のために働く者は厳しい人生を送らなければならない。
神の支配がはじまったと言うことは、救いのみ業が始まったと言うことです。言い換えると、終わりの日の神の裁きを暗示されていると言えます。
裁きの時にイエスを信じる者と否認する者を神の前で分けられますが、この終わりの日にイエスが来たことにより、この世においてその時のために裁きの準備が始まったということでしょう。
●35節.わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
●36節.自分の家族の者が敵となる。」
ここでは、イエスが来られたことによって起こる悪魔の支配の領域と神の支配の領域の対立が家族の絆をも超えるものであると言われています。
家族の絆よりも、イエスに所属するかイエスを拒むかの方が大切だと言われているのです。
たとえ家族であっても、イエスを信じているかどうかで分かれることになり、家族でも一緒に人生を歩むことができないということでしょう。
神との関わりはあらゆる人間関係に優先するといえます。
このようなことを言われるイエスは人間としてみれば非情で傲慢この上ない存在です。
イエスを一人の人間としか見ないユダヤ教指導者たちは、このようなイエスにつまずき殺したのです。
イエスとの結びつきが神との関わりを決定するのであれば、それはいかなる人間関係よりも優先されなければならないと思います。
●37節.わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
前節と同じことを再び、今度は具体的に言われています。
このようなイエスの要求は、心情としては受け入れがたいものがあります。
わたしたちが最も大切にする家族の絆を破壊するような要求は、少なからず信仰に入ろうとする者を躊躇させるかもしれません。
でも、よく考えてみると、イエスの言葉を述べる宣教の場では、古い伝統的宗教の中に生きている家族から反対されたからといって、宣教を放棄するようでは、信仰は成り立ちません。
何事も古い秩序の中に新しい秩序をもたらそうとすると、混乱が生じるのは当たり前です。
このような厳しい要求に耐えなければ、福音が世界に広がることは無かったと思います。
家族の絆はどの国においてもどの民族においても最も大切にされています。
また、伝統的な宗教もそれを最も大切なこととして教えています。
そのように考えると、このように要求するイエスは、まさに伝統的な価値観の中に投げこまれた剣と言えます。
イエスは世に混乱をもたらす新しい教えをもたらしましたが、イエスのこのような教えは、信じる者を血縁や伝統宗教の拘束から解放し、開かれた人間関係へと導き入れる役目を果たすのでしょう。
そして、その人に神のいのちを与える福音となります。
色々と宗教はありますが、そういう意味で、ある意味イエスの教えは、普遍性を持つと言えないでしょうか。
人類みんな兄弟と誰かが言いましたが、もし、そのような開かれた人間関係がこの地上に完成すると、まさにこの地上に人類みんな兄弟というユトーピアが到来するといえないでしょうか。
「開かれた人間関係」とは、どこかで読んだ本に書いてありました。
「人と人との結びつきがもはや特定の宗教・慣習とか国家・民族とか部族・氏族のような血縁というような枠の中に閉ざされないで、人間同士であるからというだけの根拠で形成される関係である。」と書いてありました。
でもね、現実にはそううまくいきません。
人々は、家族や社会の伝統的な枠に固執して「開かれた人間関係」を拒否すると、そのことを述べ伝えるキリスト教徒に迫害が起こることになります。
それによって生じる苦しみは、この「開かれた人間関係」を生み出すための産みの苦しみとなるのでしょう。
●38節.また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
●39節.自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
この「自分の十字架」と言うのは、イエスの言葉を述べ伝える中でその人が受ける迫害とか苦難を指すのでしょう。
イエスは苦難の道を歩み、十字架の死をとげられました。
イエスが十字架の死を通って復活されたように、弟子も自分の十字架を担い、永遠の命に達することができるということでしょうか。
これは、著者マタイがおかれた時代、激しい迫害の中で生きるキリスト者の時代背景を考えると、文字通りの意味で語られていた言葉であると思います。
平和な日本に生きるわたしたちは、想像すらできない時代です。
信仰を持つことの厳しさを教えられます。
その時代の価値観を根本からひっくり返すほどの革新的な新しい教え、それによって時代を変えようとする者は、どうしても迫害に遭遇します。
既存の価値観で生きる者は、既得権益が失われ、安定した生活が破壊されます。
でも、それらの痛みを乗り越えなければ新しい時代は来ないのです。
その働きをされているのが、いまもこの世に遍在されているイエスの御霊、聖霊です。
聖霊の働きは、新しい人間の創造の働きです。
古い自分を捨てる働きなのですね。だから摩擦が生じるのはやむを得ないことなのでしょう。
やむを得ないことですが、やむを得ないことだと言って、イエスの教えが正しいからと言って、自分の力で強引に新しい教えを述べ伝えようとしても失敗するだけだと思います。
あくまでも、聖霊の働き、導きに委ねるべきだと思います。御霊の力と助けがなければ何事もなしえません。
聖霊がわたしたち一人一人に応じて働かれて、言うべきこと、なすべきことを行なわせてくださると思うのです。最善の時に最善の方法でです。
でもね、もしも神がイエスの言葉を信じたがゆえに家族を分裂させたならば、神は分裂した家族の傷を、この世においてか来世においてかわかりませんが、その分裂が神のみ業の働きのために起こったことだからその傷ついた心を癒やし、必ずや祝福して下さると思うのです。
なお、ここのみ言葉を読むと、イエスの教えは家族をないがしろにする教えのように見られますが、37節に「わたしよりも父や母を愛する者は・・」とありますから、イエスは神か家族かの優先関係を問題にしておられるのだと思いますので、イエスを信じることによって、一時的に古い家族とは離れることになっても、それは新しい家族関係を得るために必要なことなのだと言っておられると思うのです。
まず家族よりもイエスを優先しなさいと言うことでしょう。
捨てることは得ることだと教えておられるのではないでしょうか。古い命を捨て、古い家族関係を捨ててイエスを信じることによって新しい命を得て新しい家族関係を得るのです。それはキリストにある家族でしょう。
« 恐るべき者(マタイ10章) | トップページ | 迫害を予告する(マタイ10章) »
「共観福音書を読む」カテゴリの記事
- 弟子たちに現れる(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(2)(ルカ24章)(2018.07.21)
- エマオで現れる(1)(ルカ24章)(2018.07.21)
- ヘロデから尋問される(ルカ23章)(2018.07.19)
- 財布と袋と剣(ルカ22章)(2018.07.19)
コメント