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2017年12月 4日 (月)

恐るべき者(マタイ10章)

今回はマタイの福音書第10章26節から33節を読みます。共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第12章2節から7節です。

●26節.「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

ここの個所のイエスの言葉は、おそらく弟子たちに対し、迫害する者たちに対する心構えを述べておられるのでしょう。

「人を恐れてはならない」とありますが、人でも色々で本当に怖い人もいます。

では、なぜ、イエスはこのように言われるのかを考えますと、それは、28節の「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。・・・」ということでしょう。人の本質は肉体ではなく魂です。

人間には人の魂を滅ぼすことはできません。

それでは、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」という言葉には、この世では隠されたまま、つまり誰にも知られないままであっても、終わりの日には必ず顕わになるという意味も含まれていると思います。

ということは、今迫害と言う罪を犯している人達も、終わりの日の裁きの時-終わりの日は始まっているが裁きの時はまだ来ていないと言う意味―にはそのことが顕わになりその人たちはそのことによって裁かれると言うことではないでしょうか。

●27節.わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

●28節.体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

27節は、隠れたところで秘かにイエスが弟子に語られた「神の国」のことを死をも恐れず公に言い広めなさいということでしょう。

なお、ルカの福音書では、この言葉を第12章1節から2節の「偽善に気をつけなさい」と言う個所で使われています。

もちろん、神の国を述べ伝えることはイエスのことを述べ伝えることになります。

それでは、28節の「体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども」というのはイエスの弟子を迫害する人間たちを指すことは明かですが、本当に人間を滅ぼすことができる存在、つまり、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる者」とは、われわれの生死与奪権を持たれる神を指しているのでしょう。

人間は肉体を滅ぼせても魂は滅ぼせない。神はその魂も滅ぼせるかたです。

●29節.二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

●30節.あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

●31節.だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

29節と30節は、雀をたとえに(雀は神殿の供え物としては最も安かった)わたしたちの命の重さを語り、同時にそのような安価な雀、そして、すべての生き物の生死は神に支配されていることを、「神の許しがなければ雀が地に落ちることもない」というたとえで語られているのでしょう。

わたしたちが「雀よりもはるかにまさっている。」の理由として、神がわたしたちを大切にしておられることは、「髪の毛一本までも数えておられる」ほどであるということでしょう。

31節で「・・あなた方は、たくさんの雀よりはるかにまさっている」と言う言葉で締めくくっておられます。

結論として、そのようなあなた方の生死を支配しておられる神は「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えて」おられるほどあなたたちのすべてを知っておられるのだから、その方に自分の生死を委ねなさい、と言うことでしょう。

「恐れるな」という言葉を何度も使われています。

宣教のために派遣される弟子達が、迫害を恐れてイエスのことを言い広めることを躊躇しているので、勇気づけておられるのでしょう。

同時に本当に恐れねばならない者は何かを説いておられるのですね。

●32節.「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。

●33節.しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

32節の「その人をわたしの仲間であると言い表す。」と33節の「その人を知らないと言う」は未来形ですから、ここは終わりの日の裁きが語られているのでしょう。

迫害され命を脅かされるような状況で、死をも恐れずイエスの仲間であることを言い表わす者は、イエスと共に神の国に受け入れられ、迫害に屈してイエスを知らないと言う者は、父と共におられるイエスから知らないといわれ神の国に入ることができないと言われています。

厳しい言葉ですが、この言葉は著者マタイがこの福音書を書いている時代背景が大きく影響していると思います。

背景には迫害による信徒の動揺あるのではないでしょうか。切羽詰まった状況が推測されます。

それでも、イエスを知っているか知らないかを言い表わすことが問題になっていて、イエスをどのような方として告白するのかということは問題になっていませんから、それは、切羽詰まっていて余裕もない状態ともとれますので、状況はそれほど厳しいと言うことでしょう。

聖書を読んでいると、神の導き、神の支配を信じる者は、預言とかヴィジョンで自分たちに降りかかる苦難を前もって知ることができる場合があります。

それは、神からの警告であると思うのですが、そのように、警告が前もってあるから、いざその時が来た時、それは神の御心だと信じることができるので、これに耐え、かつ苦難の中にも神への信頼と希望を抱くことができるのだと思うのです。

もちろん、その預言が本当に神からのものであるならば、聖霊は預言の成就のために働かれる人を助けるために一層活発に働かれることでしょう。

迫害を受けながらも心は平安の内に死んでいった信仰者たちがおられるのはその証でしょう。これは現実です。
神への信仰がしっかりしていれば、苦しくても怖くても恐れないし怯えないのです。

それは聖霊がその人に内住され助けておられるからだということでしょう。

神が共におられると言う信仰があるから、今の苦難が神の御業と知って、そのような出来事の中にも意義を見いだし、その意義づけがその人に強い希望と信仰を生みだすのです。

聖霊の働きを受けて、出来事に意義づけがなされた上での信仰は強いですね。

迫害にあった人達が、想像を絶する苦難に平然と耐えて、立ち向かっていける力は人間から出たものではないと思うのです。

そのような苦難が、神からの祝福と思える信仰、それもすごいですね。

そういう人は稀だと思いますが、本当にそういう人は、イエスの言われる幸いな人なのでしょう。

人たちは、クリスチャンの中でもすべてを捨ててどこまでもキリストと共に歩む、いわゆる弟子と言われる人たちを指すのでしょう。

「義のために迫害される者たち」(マタイの福音書第5章10節)あなたたちは幸いだとイエスは言われました。

イエスは、「たとえ体を殺しても、魂を滅ぼすことができない者たちを恐れるな」とも言われました。

それは、本当に畏れるべき方はほかにおられるからです。

人がこの方を、つまり、神を畏れるならば、ほかの恐れは、恐れでなくなるのです。

平和な現在の日本に生きるわたしたちには、このようなみ言葉を読むと、信仰を持つことの厳しさを知り、後ずさりしてしまいそうです。

ここのイエスの言葉は、激しい迫害の中で、聖霊の強い働きを受けながら書かれた、弟子達を励ますための言葉と思いますが、現在の平和な日本で生きるわたしたちクリスチャンに、同じ覚悟を求められるとしたら、クリスチャンになるような人は果たしているのでしょうか。

聖霊は困難な状況の中にあればあるほど活発に働かれ、わたしたちを助けて下さると聖書にはあります。

わたしたちも、そのような事態に遭遇した時は、必ずや聖霊が働かれて勇気づけて下さると信じます。

平和な日本では、偉そうなことを言っても生ぬるい信仰しか育たないのかもしれません。

厳しい環境に置かれなければ人も信仰も鍛えられないところもあると思います。

どちらにしても、神の御心を信じて今を生きていくしかありません。

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