わたしのもとに来なさい(マタイ11章)
今回は、マタイの福音書第11章25から30節を読みます。
共観福音書の並行個所はルカの福音書10章21節から22節です。
●25節.そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
●26節.そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
●27節.すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
イエスは、弟子たちを幼子にたとえられて、その幼子とイエスを拒否したユダヤ教の指導者たち(知恵ある者や賢い者)とを対比させて語られています。
当時の「知恵ある者や賢い者」というのは、ユダヤ教律法に精通した律法学者などユダヤ教の指導者層を指しているのでしょう。
イエスは、そういう人たちにではなく、罪人、すなわち漁師や徴税人のような下層階級出身の弟子たち、律法の知識という点では無知で幼子にすぎない弟子たち、イエスに対して幼子のように従う弟子たちに父なる神は示されたのです。
25節の「これらのこと」とは、前後の文脈をみると、27節の「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」だと思います。
つまり、イエスは律法について(ユダヤ教について)幼子のような弟子たちに父なる神のことを教えたのです。
それで、幼子のような弟子たちは「父を知る者」 になったのです。
こうして、人類の歴史上初めてイエスを通じて神が啓示されたのです。
それは、「これは御心にかなうことでした」(26節)です。
つまり、多数の「知恵ある者や賢い者」がイエスを拒否したこと、少数の弟子たち、すなわち「幼子のような弟子たちに神を啓示したこと」は神の御計画から出たことであるということでしょう。
「知恵ある者や賢い者」は、時間があり、生活に余裕があるので、律法を独占し、精通し、そのことに誇りを持っていましたから、律法を守ろうとする立場を変えられずにイエスが新たに与えられた、律法を超え、律法を成就する新しいイエスの律法、すなわちイエスの御霊、聖霊による神の恩恵による支配が到来したことを受け容れることが出来なかったのだと思います。
これは現在のわたしたちに置き換えてみることもできます。
自分の知恵や知識に頼り過ぎると、十字架の福音は人間の知恵には愚かなことに見えて、受け入れることはなかなかできません。
利得権益を持ったものは、新しい教えが生まれてもそこから抜け出せないのは古今東西、時代を超えて変わりません。
イエスの処女降誕、復活、水の上を歩く、死人の蘇り等々そのような馬鹿なこと、だからキリスト教は信じられない、と言われる方もおられます。
「知恵ある者や賢い者」たちに拒否された十字架の福音は、幼子のように信じる弟子たち、イエスを信じる者にとっては神の力となるのです(コリントⅠ第1章18節から29節)。
イエスは弟子たちに幼子のように信じることを求められました。
幼子は無知であるとも言えますが、どこかの新興宗教のように無知に乗じて献金を要求されるようなことは一切ありませんでした。
●28節.疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
●29節.わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
この聖句は他の福音書にはなくてマタイだけにあります。
ここではイエスご自身が「柔和で謙遜な」者であると言われています。
イエスご自身が神の祝福を受け継ぐ「柔和な人たち」の原型を示されたのでしょう。
それでは、29節の「わたしの軛を負い」というのはどうでしょう。
軛は農耕や運搬に使う家畜の肩にかける用具のことを言いますが、一般に何かの重荷を負うことを指すのでしょう。
ここでの重荷である軛は、魂の救いの問題だと思います。
当時のユダヤ教社会に生きる大衆は律法を守ることに重荷を持っていましたから、「律法の軛」のことを言っておられると思います。
つまり、律法を順守する責任を負うということです。
なぜ律法を守ることが軛になるかと言いますと、当時律法を守ることは選ばれた神の民のユダヤ人にとっては喜びであり誇りであったからです。
それが軛になるということは、これには事情がありまして、イエスの時代のユダヤ教は、律法学者たちの言い伝えを積み重ねて、モーセ5書以外にも細かい規定を数多く作り、一般の庶民にはとても負うこと(守ることが)が出来ない重荷となっていたと言うことです。
そのことについてイエスは、別の個所で律法学者を非難して「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない。」(マタイの福音書第23章4節)と言われています。
したがって、28節の「疲れた者、重荷を負う者」というのは、「守れない律法の軛」という重荷を負って苦しみ疲れている人たちを指していると思います。
そのような人たちに、イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29節)と呼びかけられました。
この学びなさいと言うのは、これは従いなさいと言う意味だと思います。
従うことは信じることと同じということでしょう。
このようにして、律法の軛は軽くなり、愚か者が賢くなるのです。
そうですね、自分で律法を守ろうとせずに、イエスの御霊、聖霊の導きに委ねて生きるとそれができると言うことだと思います。
だからイエスは、29節で「そうすれば「わたしは柔和で謙遜な者」だから、「あなたがたは安らぎを得られる。」と言われたのでしょう。
●30節.わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
ここでイエスは、「わたしの軛」と「律法の軛」と対比されていますから、これは多くの律法規定を守るように義務を課せられているユダヤ人に語られたのでしょう。
イエスの弟子となって、イエスの言葉だけに従って、聖霊に導かれて生きるようになれば、律法の重荷から解放されて、自然と律法を成就できるようになり、魂に安らぎを得るようになると言われたのだと思います。
それが、マタイの福音書第5章17節のイエスの言葉「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と同じだと思います。
イエスは柔和でへりくだった方、つまり父なる神の御心に生きる方で、自分のためには何も求めない方ですから、イエスに従うのは神の御心に生きるということになります。
神の御心には煩雑な規定はなく、どれだけ律法が守れているかに心が煩わされることはなくなると言うことでしょう。
この意味で、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのだと思います。
もちろん、これは時代を超えたすべての人々、「疲れた者、重荷を負う者」に対する呼びかけでもあると思います。
わたしたちには、律法の軛は無いのですが、罪と死は人間にとって究極の重荷(軛)です。もちろん、良心との葛藤も含まれるでしょう。
そのためにいろいろな宗教が生まれました。イエスはその問題から解放して、安らぎと永遠の命を与えてあげようと言われているのです。
イエスが弟子に選ばれた人々は、いわゆる無学な人々です。
といっても、学問を軽視するとか、律法の知識や人間の知恵を軽視されているわけではないと思います。
どちらかといえば、既得権益にこだわって、新しい教えを受け入れないことが問題と思います。
学問は正しい歩みをするためには必要なことだと思います。
聖書を学ぶことに置き換えると、聖書を学ぶことは、聖書だけを学ぶことではなく、聖書を通じて、人類の歴史を学び、自然を学び、社会(人間関係)を学び、人生そのものを学ぶことにつながると思うのです。
現在でも、聖書や神学について膨大な知識と知恵を持つ人たちが大勢おられます。
他方では、そのような知識や知恵とは全く無縁な人たちがおられます。
それはいつの時代も変わりません。
25節では、イエスは、天地を造られた父なる神が、そのような知恵と知識を含む福音の奥義を無知で幼子のような人たちに啓示されたことに感謝しておられます。
そのような無知で幼子のような人に福音を啓示されたのはだれもが自慢することがないためであり、人間にはできないが神にのみできることをお示しになるためであると言えます。
重複しますが、幼子というのは律法に対して幼子という意味だと思います。
律法に無知な者は、古いモーセ律法に対して執着がないのでイエスの新しい律法を提示されてもこだわることなく受け容れ易いのでしょう。
律法学者らはモーセ律法に細則を設け、複雑化させ、毎日を生きるのに大変である一般大衆にはとても守れない状態でした。
そのために律法は事実上形骸化していました。
律法学者らは律法を守ることを誇りとし、それによって自分達は救われると信じていましたから、イエスに新しい律法を提示されても受け入れることはできなかったのだと思います。
でも、幼子みたいな人、ある意味無知な人にはそのようなしがらみもありませんから、イエスの律法を受け容れるのはそんなに難しいことではなかったと思うのです。
イエスが啓示された新しい律法は、人間の努力ではとてもできないものですが、イエスを信頼していれば実行するのはそんなに難しいことではないのです。
それは、イエスの御霊、聖霊が助けて下さるからです。
だからイエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのでしょう。
また、イエスはご自分のことを「柔和」で「謙遜」な者だからそのようなわたしに学びなさいと言われたのは、驕りを戒められたのでしょう。
わたしたちも自分自身を見ればよく分かりますが、もし、イエスの恵みを受けて愚かなわたしが賢くされたら、自分には、特別に神の恵みが与えられたとおそらく思うでしょう。そして、そのことを自慢するでしょう。人間とは困った者です。
だからイエスは、ご自分のことを「柔和」で「謙遜」な者だからわたしに倣いなさいと言われたのだと思います。よくできていますね。
愚か者が誇ることになると、その者は自分の知識に頼るようになり神をおろそかにするようになりますから、本当の愚か者になってしまいます。
どんなに学んで、知識を持っても「柔和」と「謙虚」はイエスに倣ってくれぐれも忘れないようにしたいものです。
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