ベルゼブル論争(マタイ12章)
今回はマタイの福音書12章22~30節の「ベルゼブル論争」を読んでみたいと思います。
共観福音書の並行個所は、マルコの福音書は第3章20~30節、ルカの福音書は第11章14~23節です。
ここはサタンが主人公です。
最初にサタンとは何者かについて考えてみたいと思います。
サタンのもともとの意味は、ヘブライ語で「敵対する者」ということです。
ですから、これは特定の存在する者の名前ではなく、わたしは神の勢力に敵対する勢力とか力だと思っています。
簡単にいえばイエスの御霊の働きは神の働きですから、そのイエスの御霊の働きを邪魔する勢力ということでしょう。
信
徒の祈りを邪魔したり、宣教活動を邪魔したり、聖書解釈を邪魔したりする力と言うことでしょう。
なお、クリスチャンの中には、日常のちょっとした良くない出来事をすべてサタンの働きとして受け止める人がいますが、わたしはこれちょっと、どうかな、と思うのです。
サタンの目的はあくまでもイエスの働き、神の働きを妨害することですからね。
そうでしょう、そうであれば日常のちょっとした悪い出来事などどこででも起こっていますから、四六時中サタンの働きにあって、サタンに囲まれて生活していると言うことになります。
本当にそうなのかわたしは疑問に思いますので、聖書の警告するサタンをもう一度見直して見たいと思ったのです。
サタンはあくまでも神の働きを邪魔するために活動しているのですからね。
それも、神に許されている範囲でしか活動できないのです。
約2000年前からこの世は神の支配に移っていますので、この世の主役はキリストです。
マタイの福音書第12章
●同22節.そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
●同23節.群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
●同24節.しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
この個所は、イエスが悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を癒したのは(参考個所、マタイの福音書第9章32~34節「口の利けない人をいやす」など)、神の力ではなく悪霊どもの頭ベルゼブルの力によるのだとユダヤ教ファリサイ派の人たちがイエスを批判したのです。(24節)
ファリサイ派の人たちは、イエスの業を目撃して神の栄光をたたえるどころか、人々に向かって、「この出来事は神から出ているのではない。悪霊の頭ベルゼブルから出ているのだ」としました。
もちろん、そのようにしたのは、その人たちの背後に潜む悪の力が大いに影響していると思うのです。
といっても、おそらく、最初からそのようになることは決まっていたのでしょう。イエスを十字架に付けるたくらみというか準備がすでに始まっているということです。
出来事それ自体は彼らの目の前で起こったことだから否定できないし、また否定しているわけではないと思います。
人々はみんなこれを見ていましたから誤魔化すこともできません。
そうではなく、起こった出来事の背景の力(神の力)を否定したということだと思います。神の力を否定すれば、残るは悪魔の力しかありません。
神の栄光を悪魔の仕業に、救いの業を呪いの業に、父から遣わされたイエスを悪魔の手先としたのです。
なお、マルコの福音書第3章22節前半には「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。」と書いています。
これは、イエスに働く神の霊そのものが、最も悪質な悪霊だと宣言していることになります。
これは聖霊を冒涜する言葉です。このような恐ろしい言葉は、律法学者らはサタンに取りつかれていたからだと思われます。
だから、悪魔の本当の狙いは、律法学者らを操り、イエスの仲間、つまり、敵の軍隊を打ち破るためには、敵の大将イエスただ一人を狙えばよい。
悪賢いサタンは、このことをちゃんと見抜いているということです。
サタンは律法学者らを利用してイエスに戦いを挑んだのでしょう。
イエスが十字架にかけられるまではサタンの予定どおりでしたが、最後にイエスの死からの復活により最終的にサタンはイエスに決定的に敗北します。
この個所は、天上での神とサタンの戦いが、地上のイエスと律法学者らとの戦いになっているのでしょう。
このような個所は、聖書のほかの場所でも見受けられます。すごいですね。
23節では、イエスが、悪霊に取りつかれた目が見えなくて口のきけない人を癒されたとき、群衆は驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言っています。
イエスの御業、癒しの力の源が、ダビデの子か、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのか二つに意見が分かれました。
ダビデの子と言ったのは、イスラエルの民衆の間には、この時代、世の終末の苦難の日に神はダビデの子であるメシア(救済者)を送ってくださるという信仰と期待が高まっていたからです。
それに対して、ファリサイ派の人たち(マルコの福音書では律法学者たち)は、イエスは悪霊どもの頭であるベルゼブルに取りつかれ、その力を用いて子分の悪霊を追い出しているというのです。
当時病は悪霊から来ているとし、病人を癒す人を魔術師と呼んでいたそうです。
なお、現在は医学が発達し多くの病気の原因が明らかになってきています。
わたしは病気の中には悪霊によるものとそうでないものがあると思っています。
●同25節.イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
●同26節.サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
イエスは、もしイエスが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのであれば、それはベルゼブルまたはサタンの支配勢力の分裂であり自己崩壊を意味するのであるから、そのような非難は矛盾であることを指摘しておられます。
●同27節.わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
●同28節.しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
イエスは27節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。
だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と、ユダヤ教でも行われている悪霊払いを指摘して反論しておられます。悪霊が悪霊を追い出すことなどありえないからです。
さらにイエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところへ来ている」と言われたのです。
つまり、わたしがしている悪霊追放は神から来る業だと言われたのです。
イエスが地上で活躍された時代は、様々な悪霊追放が行なわれていたでしょう。パレスチナでも、イエス以外にも、いろいろな仕方で病気癒しや悪霊追放が行われていたそうです。
中には、魔術師やまじない師もいたと思われます(使徒8章9節)。
ユダヤ教は、まじないや魔術を禁じていましたから、ある人が悪霊追放や病気癒しを行なうと、はたしてそれが、 聖書の神から出たものなのか、それとも魔術やまじないによるものかが問題になるのだと思います。
魔術やまじないによる行為と判定されたら処罰されました。
同じ癒しや悪霊追放を行なっても、それが神から出たと判定されると許されて、魔術によると判定されると逆に罰せられたのです。
ここでイエスを追求したのは、イエスの悪霊追放が悪魔からでたのか神からでたものかを判定に来た律法学者らだと思われます。
彼らは、イエスの悪霊追放が「悪魔の頭」から出ていると判定したのです。
おそらくイエスは、悪霊どもを驚くほど簡単な仕方で、いとも容易に追い出されたのでしょう。
だから、人々は「こんなことは見たことがない」と言い、敵対する者たちは、あっけにとられて、「悪霊の頭」でなければ、とてもこんなことはできない判断したのでしょう。
●同29節.また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
イエスは神の霊によって悪霊を追い出しているのだと宣言したのち、ここで略奪者のたとえを置いて説明されています。
つまり、イエスが悪霊を追い出しておられるのは、イエスがすでに「強い人」、つまり、地上の人間社会を支配していたサタンを縛り上げている、すなわち神の霊の力によって悪霊どもの頭であるサタンの支配を打ち砕いておられるからだというのです。
参考となる聖書個所は、ルカの福音書10章18節で、弟子72人を巡回伝道に派遣されてその72人が帰ってきてイエスに「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と弟子たちが報告しますと、「イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」とイエスはいっておられます。
もちろん、イエスは最終的に十字架死と復活によりサタンに勝利されるのですが、それは神のご計画ですから必ずなるものです。
だから、既になったのと同じなのです。
●同30節.わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
ここの意味は、神の人類救済のみ業がイエスの誕生により実行に移されました。
イエスに聖霊が降ることにより神の支配が現に到来したのです。
この世がサタンの支配から神が支配されることになった以上、この世を生きる者は、神の御子イエスに対する中立的な立場はありえない、イエスに全面的に従うか敵対するかのどちらかであると言っておられるのでしょう。
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