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2017年12月12日 (火)

受け入れる人の報い(マタイ10章)

今回はマタイの福音書第10章40~42節を読みます。

共観福音書の並行個所は、マルコの福音書第9章41節です。

●40節.あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れる。」ですから、イエスと弟子たちは一体で、弟子たちはイエスを代理していると言えます。

弟子ですから、いわゆる、クリスチャンと呼ばれる人たち全体ではありません。その中から選ばれた人たちです。
弟子とは、人生のすべてをかけてイエスに付き従う人たちです。

つまり、弟子の資格を確認されているのだと思います。

代理ですから、代理人は本人に代わって事を処理し、その結果は本人に及ぶということです。これはすごいことです。

だから、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」となるのでしょう。

イエスは神に遣わされた方ですから、イエスを受け入れることは神を受け入れることになるのです。

イエスを拒むことは神を拒むことになるのです。

それは弟子である代理人とイエスの間でも同じことが言えます。

これがキリスト教とほかの宗教との決定的な違いといえます。

ほかの宗教は、何らかの宗教的儀式にあずかるとか、修行を積み深い知恵とか高い道徳を自分のものにすることを求めていると思うのです。

それに対しキリスト教は、イエスの言葉を受け入れ、イエスにつく従うというか、共に歩むことに尽きるのです。
修行とか儀式でなくイエス自身がすべてなのです。

弟子を受け入れるということは、イエスを受け入れ、神を受け入れることになり、それらは神の意志であり行為なのです。

そのことを現在を生きるわたしたちの立場で考えてみますと、使者である当時の弟子は今はもう死んでいませんから、わたしたちは、イエスの使者である使徒たちの証言記録(それが新約聖書の言葉)を読んだり聞いたりすることによって、その証言記録を信じイエスを受け入れ、イエスを受け入れることで神を受け入れているということになるのだと思うのです。

もちろん、聖霊の働きがあって聖書の言葉があるのです。

けっしてその反対ではありません。極端にいえば、聖書がなくても聖霊の働きがあればキリスト教は成立するのです。

しかし、伝道を人間の手にゆだねられたから、聖書があるのです。

●41節.預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

ここはイエスの使者を受け入れる者が、そのことによって受ける報いを語られているのだと思います。

それでは、その報いとは何かと言うことですが、それはズバリ神の御霊、聖霊のことだと思います。

「預言者と同じ報い」とか「正しい者と同じ報い」というように例をあげて、イエスの弟子を受け入れる者は「イエスの弟子と同じ報いを受ける」ということを語っているのでしょう。

ここにはあくまでわたしたち個人一人一人がイエスの言葉を受け入れるかどうかを問うているのであって、そこには聖職者の権威とか教会の権威などは入ってきません。神の権威だけです。

●42節.はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

「小さな者」とは、イエスの弟子たちのことを指しますから、イエスの言葉、福音を伝える人たちのことを指すことになると思います。

「福音を伝える人たち」とは、聖職者に限らず福音を伝えるクリスチャンすべてを指すと思います。

「小さな者の一人に、冷たい水一杯飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」ですから、福音を伝える人を助ける人もまた小さな者である弟子と同じ報いを受けるのです。

弟子たちは福音を伝える役目を負っているのですから、その意味でイエスの代理人です。

その福音について少し考えてみます。

パウロは福音を次のように言っています。

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、すべて信じる者には、救いに至らしめる神の力です。」(ローマの信徒への手紙第1章16節)

福音を語りその報いを受ける人は、ユダヤ人をはじめギリシア人にもですから、すべての人、すべての民族も報いを受けるということです。

福音は抽象的な、教義や理論でなく「福音は神の力」、そうです実際に働いている神の力なのです。

その力は、「人にはできないが、神にはできる。」と言われている方の力で、人を救いに至らしめる力です。

その神の力は、聖霊の働きで担保され、実現に導かれます。

その原動力である聖霊の力が報いなのですね。

これは理屈ではなく現実なのです。だからキリスト教の今があるのです。

ですから、キリスト教において救いとは、ほかの宗教のように来世にあるのではなく、現世において神の御霊、聖霊によって体験する新しい事態です。

それは、人を悲惨な状態から解放し、罪や病気や死の支配から解放し、人間を存在の根底から変容させ、神の栄光にあずかる姿に完成させることを目的とするのです。

つまり、人間を解放し、変容させ、完成させる全行程です。

その事態は、神の恩恵の世界で、神の支配が到来したことを表します。

そうですね、イエスの言葉を受け入れて、神の霊、聖霊の中に歩む者ならば、今のあなたの地位も名誉も、今のあなたの業績も、全く違ったものに見えるようになる、ということでしょうか。

そう、それらが自分の能力や努力の結果と思っていたのが、神の働きの結果だと認識するようになるということでしょう。

そのように働く力は、イエスの言葉を信じる者に働きます。

社会的身分・道徳的地位・経済的地位・民族・国家・宗教・男女・教養・文化を問いません。

差別は一切ないのです。
わたしは福音というものを、このように理解しています。

こうしてみると、福音はイエスの言葉と出来事を告げ知らせることと言えます。その告げ知らせる言葉に神の霊、聖霊は働かれるのです。

その力の働きは、理屈ではなく現実の体験なのです。

だから、力の働きは体験したものでない限りわからないということです。

したがって、クリスチャンはその力の働きを体験しているといえます。

何らかの形で体験しているから、イエスの言葉を信じることができたのです。

体験した人は、その体験を証言したくなります。

証言したくなるのも聖霊の働きなのです。真理を知れば語りたくなるのは人間の性です。そして、キリストの弟子になるのだと思います。

イエスの言葉を信じるのも救いに至らしめる神の力の働きです。

だからイエスの言葉、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしが あなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)となるわけです。

その神に選ばれたクリスチャンが他者にすることは、イエスがその他者にすることと同じことになります。

それが、たとえ「水一杯でも」与える人は、 イエスに与えていることになるのです。

イエスは、最も重要な掟として、まず神との関係において、マタイの福音書第22章37節で、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と言われました。

そして、人間関係においては、同39節で「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われました。

そしてイエスは新しい掟として、この隣人の中に敵をも含めて、さらに「敵を愛しなさい」と言われるのです。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(新約聖書マタイの福音書第5章44節)。

このみ言葉が実現する社会の到来は、約2000年前に、この人間世界に神による恩恵の支配が始まったことによる当然の結果なのでしょう。

それは神がなさることですから必ず成るのです。

マルコの福音書第10章27節「イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」で担保されます。

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