安らぎを得られる(2)(マタイ11章)
さて、「安らぎを得られる(1)」から続きまして、
イエスと共に、同じ方向、同じ歩調で歩くとはどういうことかと考えますと、それは、イエスと共にくびきを背負って生きること、共に人生の重荷を背負うのですから勝手なことはできませんし、双方が自己主張しては前に進みませんから、当然イエスがリーダーとなりわたしたちは従属することになります。
だから、マルコの福音書第8章34節では、「・・わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とイエスは言われているのです。
このイエスの言葉によると、くびきは十字架に譬えてあります。
そして、その十字架はイエスの十字架ではなくて自分の十字架だと書いてあります。
この自分の十字架とは、自分が人生を生きる上で負うべき苦難とか病気とか試練を指すと考えますが、この十字架を、キリストを信じるゆえに負う迫害ととることもできますが、現在の日本では迫害はないに等しいと思います。
教会においても、迫害に負けないで頑張りましょうと言う説教をたまに聞くことがありますが、この日本のどこに迫害と言えるような迫害があるのか不思議に思うことがあります。
イエスは、わたしと一つになって、わたしの苦難とか病気とか試練を一緒に背負って上げると言われているのです。
そして、そのための条件として、ヨハネの福音書第12章25節によれば、「この世で自分の命を憎む人は、」と言うことです。
くびきを負えば、自分の意思だけで自分の進みたい方向に行くことはできません。
わたしたちは自分を捨てて、自己中心と言う欲望を捨てて、イエスという牛にまかせてイエスの力でイエスの進みたい方向に進んでいくということでしょう。あくまでも従順を求められています。
そうすれば、魂に安らぎが来ると約束されています。
イエスの約束は神様の約束ですから、必ず成るのです。
ヨハネの福音書第12章25節の「自分の命を憎む」とは、少しわかりにくいですが、自分の命とは、生まれながらにもつ古い命のことだとおもいますから、その命に執着するのを止めなさいと言われていると思います。
命にはわたしたちの生まれながらの命(プシュケー)と、永遠に続く神の命(ゾーエー)があるのですね。
生まれながらの命は、エデンの園でアダムとエバが神から離反して以来、神との交流が絶えて変質してしまいました。
そうです、神との交流が絶えて、勝手な生き方をしてきたので、人類はアダム以降今日まで、創造主の創造の目的に反する生き方をしてきたということになります。だから安らぎがない。
被造物は造られた目的に沿って存在するのがいちばん安らぎを覚える状態なのでしょう。
神と共にいれば正しい生き方を(創造の目的に沿っていると言うこと)出来るのですが、神から離反すると、何が正しいか分からなくなり、罪(神の言うことを聞かないで、自分の利益を中心にして善悪を判断して勝手なことばかりをしている状態。)を生み出すしかない命になってしまったのです。
しかも、その性質は、「自分で善悪を選択し、自分の力でその善悪を実行し、その達成を誇る」という傲慢で自己中心的なものです。
わたしたちがこの自己中心的な命に執着し、この命で生きる以上、神の御心に適うことはないということです。
神の御心に適わないなら、そこに本当の安らぎはありえないのです。
被造物は創造主の御心、造られた目的に反して生きる限り本当の安らぎなはないのです。これは道理です。
しかし、この生まれながらの古い命は、2000年前のイエスの十字架の出来事でイエスとともに死んだのです。
ですから、この古い命とわたしたちはその時点で本来は切れているのです。
そして、新しい命を人間に与える神の支配がはじまっているのです。
ですから、イエスは、生まれながらの古い命を憎んで(捨てて)、十字架によってイエスとともに既に死んでいることを認め、イエスの死からの復活により与えられた、永遠に続く来世での新しい命を受け入れ、そこに希望を持って現世を生きることを求められていると思うのです。
もちろん、生まれながらの古い命を捨てることは、罪人が自分の力で自分を罪に誘う力を捨てることですから、それはできない相談です。
だから、イエスは、自分に全てをゆだねたら、過去を悔い改めてそのように決心したら、わたしが古い命を新しい命に造り変えてあげると言われているのだと思います。
これを人間の変容とか新生という言葉で表現しています。
そのためには、イエスの言葉を信じる信仰が必要ですが、ルカの福音書第18章16節には「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこの入ることはできない。」と書かれています。
この子供のようにと言うのはどういう姿かと考えますと、乳飲み子は自分で生存することが出来ないので、親が与えてくれるものだけで生存しています。
わたしたちは、そういう自分からは何もできない者として、全面的にイエスの言葉への信仰に依存する姿を示されたと思うのです。
「子供のように」というのが、素直なとか無邪気と言う意味であれば、子供はすべてそういう子供ばかりではありませんから現実的ではありません。
そうではなく、子供は親にすがらなくては生きてはいけない存在と言う意味で、あなたたちは神にすがらなくては生きてはいけないのだから幼子のように全面的に神にすがって生きる者となりなさいと言われていると思います。
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