兄弟の忠告(マタイ18章)
今回はマタイの福音書第18章15節から20節を読みます。
共観福音書の並行個所は、ルカの福音書第17章3節です。
●15節.「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
●16節.聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
●17節.それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
15節から17節は、教会(今のような制度的な教会ではなく、信徒の集まりであるエクレーシアを指すのでしょう。
以下教会という場合同じ意味です。)における「罪を犯した兄弟」の取り扱いについての勧告でしょう。
18節から19節ではその争いを解決するための教会の権威と特権が語られています。
マタイは教会で起こる問題にどのように対処すべきか、主イエスの言葉を聞き取ろうとしているのでしょう。
マタイはイエスの言葉を、例えば「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい」(ルカの福音書17章3節)を実際の場面に適用できるように、具体的に規定にしたのでしょう。
しかし、「教会で裁く罪」とはどのような罪を指すのかとか「罪を犯す」とはどういうことを指しているのかは明確には規定されていません。
イスラエルにおいては、罪とは旧約聖書のモーセ五書などの律法に違反する行為であり、罪に対する処罰と赦しのための手続き(祭儀)は詳しく規定されていました。
イエスをメシア・キリストと信じる者たちの新しい共同体である教会においては、イエス・キリストにおいて啓示された父の御心に反する行動が罪となるというのはわかりますが、聖書では「隣人を自己を愛するように愛しなさい」とか「父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者であれ」という戒めが与えられているだけで、具体的に個々の行為についての規定はありません。
15節の文面から見えるのは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということは、あなたに共同体の人間が罪を犯したならば、ということですから、あなたへの罪が不法であり神のみ心に反すると思うならば、まず、あなたが相手に、それが不法であり神の御心に反することを説いて、一対一で諫めるように求められているのでしょう。
それで相手が反省して改めれば、兄弟の交わりは続くことになり、「兄弟を得た」ことになる(16節)ということでしょう。
ただ一般の場合と違い、教会では、相手を赦すことが前提になると思うのです。
「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。もし悔い改めれば、赦してやりなさい」(ルカ17の3)とあるからです。
それでも、説得しても「聞き入れられない場合」は、16節で、「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」となります。
証人を立てるということは、おそらく説得する側の兄弟が間違っている場合も考慮して、「聞き入れない兄弟」が罪を犯しているのかどうかを確定するために必要な手続きとなるのでしょう。
それで聞き入れられれば、兄弟を得たことになります。それでも聞き入れなければ、17節の「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」となります。
しかし、教会には法廷もなければ、罪を裁く会議も制度上ありません。
そうすると具体的には、裁きの申し出があると、まず、役員会議で討議され、その内容が教会全体に関わるものならば何らかの形で行われる集会の全体会議のようなものにかけて問題を討議し、その構成員の扱いを決めることを指していると思います。
その討議の結果を受け入れないならば「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)となります。
「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのは、その者をもはや仲間としての兄弟姉妹とはせず、信仰共同体から追放することになります。
本来裁き主は神ですが、追放ですからここでは教会が裁いていることになります。
確かに教会にその権威が認められているのでしょう。
わたしはこの地上における裁きは第一義的に教会にありますが、やがて到来する終わりの日に最終的に裁かれるのはイエスだと思っています。
したがって、たとえ教会の裁きで追放されても、悔い改めればとことん赦されるのがイエスの教えです。
このように、罪を犯せば、まず、当事者で話し合い、それでも和解できなければ証人を立てて話し合い、それでも聞き入れられなければ、集会全体が裁定を下しなさいということでしょう。
●18節.はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
●19節.また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
●20節.二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
このように教会に裁きの権威が認められるのは、前提として、教会には赦したり赦さないで信仰共同体から追放する権能があること(18節)、および集会の心を合わせた祈りは必ず聴かれること(19節)が保証され、その根拠として集会の中にはイエスご自身がおられることが上げられます(20節)。
18節と19節の「はっきり言っておく」というイエスの言葉は、解説では、原語では「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という意味で、重要なことをイエスが宣言または断言されるときによく用いられます。
また、「アーメン」というのは、「堅固である、信実である、信じる」という動詞の形容詞形(または副詞形)で、「堅い、確かな、信実な」という意味だそうです。
18節の「つなぐ」と「解く」はどのような意味かを調べてみますと、ユダヤ教律法の教師たちの言葉で、罪の責任に「つなぐ」とか、その責任から「解く」という意味であったそうです。
ですから、一概に裁きとは言えないと思いますので、それは決して、先にも書きましたが、終わりの日の審判に代わるものではないということです。
キリストの共同体は、復活の御霊、聖霊によって自分たちにはこのような権能を与えられていると理解していたのでしょう。
信徒の集団としての教会が地上で罪ありとしたことは、天上でも罪ありとされ、赦して罪なしとしたことは、神も赦して受け入れてくださるということでしょう。
このような、地と天の対応は祈りにおける願い事についても同じで、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19節)と言われています。
それは、キリストを信じる者の集団、「あなたがたのうち二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20節)と言われているからです。
つまり、イエスの言葉を信じる者が二人または三人集まれば、そこに聖職者がいなくても、礼拝堂がなくてもそこはもう教会と言えます。
聖霊として信じる者たちの内におられるイエスは、もちろん復活されたイエスです。
イエスは、復活して聖霊として、信じる者たちの共同体の中にもいてくださり、働いてくださっている。
現在も、そしてこの世界が終わる未来の審判の日までわたしたちと共にいて助けてくださっているのです。
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