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2017年12月18日 (月)

神が選んだ僕(マタイ12章)

マタイの福音書12章15節から21節を読みます。

マタイの福音書12章

●15節.「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして」
この節の「それ」は何を指すのかですが、おそらく、イエスを殺そうとするファリサイ派の人たちの殺意を指しているのでしょう。

イエスはファリサイ派の人たちの殺意を知って、その危機から逃れるために会堂を立ち去られたのでしょう。大勢の群衆もイエスに従いました。

この箇所は、マルコの福音書の第3章7節から12節の「湖の岸辺の群衆」に対応すると思います。

同じ個所をマルコは詳しく、イエスはガリラヤ湖畔へ立ち去り、そこに集まってきた多くの群衆の中の病人をいやされたことを、地名も入れて描いています。

マタイは簡単で、イエスが立ち去られたことと病人をいやされた事実を簡単に一行で報告しているだけです。

両者の違うところは、マルコが「あなたは神の子だ」と叫ぶ霊どもに対して、イエスが自分のことを言いふらさないように厳しくいましめられたと書いているところを、マタイは、癒された病人に対するいましめとして描いています。

ここまで読んで感じられることは、ファリサイ派の人たちのイエスへの怒りが極限に達したのですが、イエスはそれに対抗しようとはしないで、その場からおとなしく立ち去り、病を持った大勢の人たちを癒すことに専念されたことだと思います。

まだ、その時(十字架)ではなかったのですね。神のご計画には何事にも定められた時があるのです。

マタイの福音書12章

●16節.「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」。

イエスは、ご自分のことを人々に知らせないようにと戒められましたが、それは、ご自分に対する怒りが極限に達していたファリサイ派の人たちをおさめるためであったと思います。

まだ、イエスの時(十字架の受難の時)が来ていないからでしょう。

もちろん、群衆の中には、イエスに望みをかけてローマ帝国の支配からの離脱を試みる働きもあったでしょうから、イエスはそのような政治的な動きにご自分が利用されることを避ける必要もあったのではないでしょうか。

●17節.「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」。

この節のイザヤ書の預言というのは、イザヤ書42章1節から4節です。
この預言の箇所は、イスラエル捕囚期の大預言者(第二イザヤ)が語った「主の僕の召命」の一部です。

この預言は、キリストであるイエスの召命を指す預言として重視されています。

おそらくマタイは、黙って会堂から立ち去り、いやされた民衆にも言いふらさないようにもとめるイエスを、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」という預言の成就としたかったのでしょう。

●18節.「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。」

●19節.「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」

●20節.「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」

●21節.「異邦人は彼の名に望みをかける。」

「主の僕の召命」は、イエスの働きを悪霊によるとする批判をかわし、イエスの働きは悪霊によるのではなく、神の霊によるのだという主張を根拠づけています(18節)。

さらに、「彼は異邦人に正義を知らせる」とか、「異邦人は彼の名に望みをかける」という預言(18節・21節)は、これからイエス・キリストの福音を異邦人世界に宣べ伝えようとしているマタイの共同体にとって重要な預言であったと思います。

あらためてこの「主の僕の召命」の預言を読んで見ますと、本当にイエスの姿を的確に表していると思います。
イエスはキリストとして、ユダヤ人には受け入れられませんでした。

しかし、多くの異邦人に受け入れられました。

イエスは十字架につけられるまで何の抵抗もされませんでした。

その姿はユダヤ人にとって、自分たちの期待に反した弱いメシアで、弱いメシアは躓き石になりました。

しかし、神を知らず、望みもなく、罪の中に死んでいた異邦人(イスラエル人以外の民族)にとっては、その姿は、まさに罪が許される希望となりました。

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