フォト
2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

« 魚をより分ける譬え(マタイ13章) | トップページ | 天の国のことを学んだ学者(マタイ13章) »

2017年12月23日 (土)

「毒麦」のたとえ(マタイ13章)

今回はマタイの福音書第13章24~30節/同36~43節 を読みます。

共観福音書に並行個所はありません。

●24節.イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

●25節.人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

●26節.芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

●27節.僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

●28節.主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
●29節.主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

●30節.刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

ここでもマルコは、神の国を伝えるために、「種を蒔く人」「成長する種」「からし種」のたとえに続いて「毒麦」のたとえを置いています。

このたとえ話は、他の共観福音書にはないマタイ独自のものです。

そのためかは分かりませんが、このたとえにマタイは自分で詳しい説明を付け加えています(13章36節から43節「毒麦」のたとえの説明)。

この物語の意味はマタイ自身の説明によって明かです。

すなわり、36節から43節を読むと、良い種を蒔くのは人の子であるイエスのこと。畑は世界のこと、良い種は御国の子を指し、毒麦は悪い者の子を指す。

毒麦を蒔いたのは悪魔であり、刈り入れは世の終わりのことを指し、刈りいれる者は天使たちと説明されています。

これをたとえに置き換えて見ますと、人の子であるイエス(ある人)がこの世界(畑)に来て、神の言葉(良い種)を語られた(蒔かれた)。

夜ねむっている間に(おそらく番をしている天使が眠っている間に隙を見て)悪魔が神の言葉(良い種)が蒔かれた世界(畑)に入ってきて、毒麦の種を蒔いた。

蒔かれた種が芽を出し、実ってみると、小さい頃には分からなかった毒麦も成長して誰の目にも毒麦と分かるように大きくなった。

蒔かれた種が成長して初めて、良い種の成長した姿である「御国の子ら」の中に、毒麦の成長した姿である「悪い者の子ら」もいることが分かったのです。

畑に良い麦と毒麦が混じっているように、世界には「御国の子ら」と「悪い者の子ら」が混じっているのです。

今「悪い者の子ら」が裁かれずに放置されているのは、成長するまで区別がつかないから、成長する前に抜くと良い麦も一緒に抜いてしまう恐れがあるからであるということでしょうか。

だから、二種類の麦が十分に成長して、違いが明らかになる収穫の時、つまり世の終わりの時である裁きの時に、まず、悪い者の子らを集めて束にして焼き捨て、御国の子らは倉庫(天国)に入れなさい、と主人であるイエスが僕である天使に命じた。・・となるのではないでしょうか。

このたとえが伝えようとすることをまとめてみると、良い麦と毒麦を一緒に抜いてしまわないように毒麦も今は放置されているが、収穫の時には必ず火で焼かれるようになる。

そのように、不法を行う者たちも今は「御国の子ら」の中に混じっているが、彼らは終わりの時に神の裁きにより必ず滅ぼされるのだという警告だと思います。

このたとえの問題点は、毒麦とはどういう種類の人達かということでしょう。良い麦と毒麦が同じような形をしていて一見区別ができないと書かれていますので、対象となる人たちはおそらく、同じようにイエスの言葉を信じていると告白している内部の者(いわゆる聖職者を含むクリスチャン)たちを指すと理解したいと思います。


このようなたとえ話が取り上げられたのは、著者がこの福音書を書いた時のキリスト教会の中で福音の解釈に論争があったが結論が出なかったのか、信徒がどちらに属するか区別できなかった現実を踏まえて、イエスの生前の言葉を用いて語られたのだと思うのです。

したがって、マタイは終わりの日の神が裁かれる日までユダヤ人も異邦人も育つままにしておいて、最後には神が裁かれるとし、神に委ねたのだと思います。

そうすれば、キリスト教会内部の者に対する警告にもなりますからね。

もとろん。裁きは人間ではなく神がなされることです。

神は人の本当の姿を裁かれます。人の本当の姿は、現に見えている範囲しか見ることができないわたしたちにわかるはずもありません。

それができるのは神のみです。

そして、もう一つこのたとえ話から読み取れるのは、成長段階では誰が良い麦か毒麦かの判別が難しくても、良い麦と毒麦は決して途中で入れ替わったり交わったりしない。

良い種は良い麦に成長し、毒麦の種は毒麦に成長すると言うことではないでしょうか。

ですから、わたしたちは、見た目でその人を拙速に判断してはいけないのです。

人の本当の姿を見分けることができないわたしたちが、勝手にその人が毒麦だと判断して、その毒麦を抜こうとすれば本物まで抜いてしまう危険があるからです。

しかし、わたしが思うに、毒麦の成長した姿である「悪い者の子ら」には悔い改めて救われる(天の国に入る)機会はないのでしょうか。

悪魔が毒麦の種をまいたのですから、その人は生まれつき毒麦に育つように生まれてきたということになります。

そうすると、その人は悔い改める機会がないことになりますから、あまりにも不公平です。そこのところはどのように考えればよいのでしょう。

わたくしは、毒麦となるものはほんの一部で、ほとんどの人、普通に暮らしている人は該当しないと思うのです。

ですから、全員ではなくても普通に暮らしているほとんどの人は救われるというわたしの思いとは矛盾しないと思います。

最後に、悪魔の働きですが、悪魔は巧妙に働くと言われています。

悪魔のやりかたは、本物の麦の間に偽りの毒麦を混ぜておいて、偽物を後から暴露すれば、本物までが、偽物ではないかと疑われることになり、みんなは疑心暗鬼になりエクレシア(キリスト者の集まり)を混乱に陥れます。

それが、悪魔のやりかたでしょう。

聖書には、悪魔のことを、「・・悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。・・悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネの福音書第8章44節)と書いてあります。

宗教の世界では、何が本物で何が偽物か分からなくなり混乱することが多いのですが、でもわたしたちは、このように考えたいですね。

もし、偽物があるなら本物もある。そして、何が本物か何が偽物かは必ず時がきれば明確になる。

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」(マタイの福音書10章26節)です。

キリスト信徒の集まりであるエクレシア(教会、イエスの言葉を信じる者の集まり)には、悪魔が必ずよい種が成長するのを邪魔する為に毒麦の種を蒔いています。

イエスの言葉を信じる者の集まりであるエクレシアであっても、悪魔の攻撃を避けることはできません。

何しろエクレシアは、悪魔の宿敵イエスの弟子達が集まるところですからね。

そのために、時にその毒麦が表に出て聖職者を惑わせ世間を騒がせることがあります。

でも、良い麦と毒麦、つまり、御国の子たちと悪魔の子たちは、成長すると違いが明らかになります。

本物と偽物とは、ガン細胞と健康な細胞のように、時期が来れば、大きくなればはっきりとその姿を現します。
本物と偽物を抱えながらエクレシアは確実に成長し、やがて選別されて完成するのです。

そうして下さるのが神の霊、聖霊の働きだからです。神の働きであれば、絶対にそのようになるのです。

なによりも、悪魔の子がいくら御国の子を惑わしても、イエスは既に十字架死と復活により既に悪魔に勝っています。

« 魚をより分ける譬え(マタイ13章) | トップページ | 天の国のことを学んだ学者(マタイ13章) »

共観福音書を読む」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「毒麦」のたとえ(マタイ13章):

« 魚をより分ける譬え(マタイ13章) | トップページ | 天の国のことを学んだ学者(マタイ13章) »