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2017年12月12日 (火)

洗礼者ヨハネとイエス(1)(マタイ11章)

今回は聖書の副題「洗礼者ヨハネとイエス」の全半、マタイの福音書第11章1~6節、11節 を読みます。後半は「洗礼者ヨハネとイエス(2)」として投稿します。

共観福音書の並行個所は、ルカによる福音書第7章18節から23節です。

マタイの福音書第11章

●1節.イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

●2節.ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、

●3節.尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

●4節.イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。

●5節.目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、 らい病を患っている人は清くなり、 耳の聞こえない人は聞こえ、 死者は生き返り、 貧しい人は福音を告げ知らされている。

●6節.わたしにつまずかない人は幸いである。」

●11節.はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった・・・。

マタイの福音書は、洗礼者ヨハネをイエスの先駆者としています。11節でイエスは洗礼者ヨハネのことを「女から生まれた者の中でもっとも偉大な」人物とか預言者以上の者とも言われました。

また、洗礼者ヨハネは、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイの福音書第3章11節)とキリストの出現を預言しました。

ところが、洗礼者ヨハネは、獄中でイエスの活動の様子を伝え聞くと、自分の思惑と少し違っていたのか、弟子を遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)と尋ねさせ、確かめています。

洗礼者ヨハネは、イエスのことをよく知っていて、イエスに洗礼を授けておきながら、後になってイエスにつまずきそうになったのでしょうか。

わたしはこの個所を読んで、洗礼者ヨハネの言葉に疑問を持ちました。

イエスは洗礼者ヨハネの質問に対し、ご自分がしておられる力ある業(奇跡)を列挙(4節)して「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われました。

イエスが列挙された奇跡は、イエスの働きが旧約聖書イザヤ書の預言(イザヤ書第35章5節6節)、イスラエルの回復(29章18節から19節・35章5節から6節)と貧しい者への福音(61章1節)の成就であることを現していると思います。

旧約聖書の預言には、らい病人の清めや死者の生き返りはなかったので、イエスがなされた奇跡はそれ以上であったかもしれません。

そして、「わたしにつまずかない人は幸いである」と付け加えられました。

洗礼者ヨハネが質問のために弟子をイエスに遣わしたことが歴史的事実であるかどうか、また、その質問の動機などについては分かりませんが、どうやら、わざわざ弟子に確認させているところを見ると、洗礼者ヨハネはイエスをメシアと認めることに疑問があったのかも知れません。

それでは、その疑問とは何でしょうかね。

推測して見ると、洗礼者ヨハネは、ユダヤ教律法学者ら宗教指導者が期待していたメシアの姿、すなわちダビデの再来(イスラエルが国として最も強かった時代)のように終わりの日にメシアは到来し、イスラエルの民と異邦人の諸民族との間を裁き(旧約聖書エレミヤ書第30章20節、21節、24節)、イスラエルの聖地が異邦人の諸民族から敬われ諸国民の中心となる。

イエスの到来がそういうメシアの到来であるならば、すなわち、今イエスによって終わりの日が来ているのであれば、なぜそのようにならないのか、と言っていると思うのです。

ユダヤ教律法学者ら宗教指導者の思いは洗礼者ヨハネの思いともまた違っていたと思います。

律法学者らの信仰、つまり、律法を守ること(行い)により救われると言う信仰とは違い、イエスは全人類の救いのためにこの世に来られ、律法を守れないような貧しい人(宗教指導者たちは、そういう人を罪人と定めてさげすんでいました)に、救いは行いでなく信仰により救われることを教え、救いの手を差し伸べられましたので、律法学者らのメシアの姿とは大きく違っていました。

律法学者らは、イエスが自分たちが期待していたメシアでないことに失望して、イエスにつまづきイエスを十字架で殺してしまうことになります。

ローマの信徒への手紙第9章32節にパウロが書いています。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」

生活態度も洗礼者ヨハネとイエスは随分違います。

洗礼者ヨハネは「らくだの毛皮を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」と書いてあるようにその禁欲ぶりが窺われます。

イエスは「大食漢で大酒飲みだ」(マタイの福音書第11章19節)と言われて嘲笑されています。

福音書では、洗礼者ヨハネはイエスの「先駆け」とされていますから、両者の優劣がはっきりしています(ヨハネの福音書第3章29~30節)が、学者にはこの個所を両者の優劣をはっきりさせるためにこのように書かれたのではという見方をする人もいるそうです。

イエスのなされていることを見て、ユダヤ教律法学者ら宗教指導者とか洗礼者ヨハネは、イエスが旧約聖書の預言するメシアであるのかどうかを問題にしたのですが、それは、イエスのなさったことが、預言書に書かれているメシアが終わりの日にするようなことを現実になさっていたからと言えると思うのです。

民衆はそのようなイエスに期待していましたので、イエスの人気は大変だったと思います。

それは、当時の指導者層を恐れさすほどでした。その恐れが十字架につながったのですからね。

どちらにしても、洗礼者ヨハネのようなイエスに対する疑いは、イエスのなさっていた力ある業(奇跡)が、洗礼者ヨハネを初めとして、 宗教国家に生きる、当時の人たちの一般的な常識からそれほどかけ離れていたということを示していると思うのです。

逆に言えば、イエスが行った出来事が真実であったことを伝えていると思うのです。

驚くべきイエスのなさる力ある業(奇跡)を見て、イエスのことを「来るべき方」ではないかと洗礼者ヨハネを含めて多くの人がそのように思ったのでしょう。

今まで見たこともない力ある業(奇跡)をみて、期待したのです。

この方こそ、モーセが預言した大預言者ではないかと。あるいはエリヤの再来ではないかと。

イエスは、この洗礼者ヨハネの問いに、はっきりと答えませんでした。

それは、いろいろと解釈があるそうですが、わたしは、イエスは、自分が「来るべき方」メシアであると自称する時では無かったからだと思うのです。

神のなさることには,何事にも必ずその時があると思っているからです。

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