マタイを弟子にする(マタイ9章)
マタイの福音書第9章9節から13節を読みます。
共観福音書の並行個所はマルコの福音書第2章13節から17節/ルカの福音書第5章27節から32節です。
マタイによる福音書第9章
●9節.イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスは「向こう岸のガラダ人の地方」(マタイの福音書第8章28節)を出て、「・・舟に乗って湖を渡り、自分の町(カファルナウム)に帰って来られた」(マタイの福音書9章1節)のです。
そこで中風の人(脚の萎えた人)を癒し、おそらくカファルナウムでは多くの病人を癒す働きをされた後、ふたたび「そこをたち」次の町に出かけられるのでしょう。
そして、カファルナウムで「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。」のです。
すると、マタイは、すぐさま「彼は立ち上がってイエスに従った。」のです。
なお、ルカの福音書5章27節の並行箇所には、マタイのことを「レビ」とありますが、レビが本当の名であると思います。マタイは通称なのでしょう。
マタイはイエスの「わたしに従いなさい」と言う言葉に、徴税人という割の良い仕事を放り出して躊躇なく従っています。
イエスも迷わずマタイを指名しています。
マタイにとっては人生を左右する重大な選択なのに、非常にスムーズに事が進んでいますが、そこで考えられるのは、それは、マタイは、イエスのことを噂とかイエスの教えを聞くなどして事前によく知っていたのではないでしょうか。
徴税人はローマのために税金を徴収する人ですから、ローマの手先として嫌われていましたので、当時徴税人は遊女と並んで典型的な「罪人」であり嫌われものでした。
罪人として蔑視され、誰も声をかけてくれませんでした。
だから、イエスに声をかけてもらって嬉しかったということもあるかも知れません。
いや、何よりも神がマタイを既に選ばれていたので、声をかけられた、ということではないでしょうか。それはまさしく御霊がマタイに働かれたということではないでしょうか。
いわゆる、マタイは召命を受けたのですから、イエスから声をかけられることは事前に決まっていたことなのです。
イエスの言葉が、マタイの心の中で働いたが、マタイは自分の意思でイエスに従ったのです。そして、割の良い職を失ったのです。
なお、弟子にするというのは、クリスチャンになるのと違って、それ以上のことを求められると思います。
クリスチャンは、イエスの言葉を信じて心に留めればよいのですが、弟子はどこまでもイエスに付き従うことが求められるのでしょう。
●10節.イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
●11節.ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
●12節.イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
イエスを敵視するファリサイ派の人々はイエスが罪人とされる徴税人と食事をされるのを見て(10節)、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問うています(11節)。
これは詰問ですが、非難の言葉でもあります。
この非難に対してイエスは言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人(義人)を招くためではなく、罪人を招くためである」(12節)。
10節の「イエスがその家で食事をしておられた」の食事ですが、並行箇所のマルコの福音書2章15節に「席につかれた」とありますので、解説書には、この言葉が宴席での「横になる」という意味だということですから、この食事は、宴席または祝宴という性格のものではないかと説明されています。
おそらく、レビはイエスのような人が取税人である自分を弟子として受け入れて下さったことへの喜びと感謝から、また取税人としてのこれまでの生涯に訣別することを世間に知らせるために、人を喜ばせる大きな散財をしたのではないでしょうか。
「多くの徴税人や罪人もイエスの弟子たちと同席していた。」(マルコの福音書第2章15節)とありますから、実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのです。
ここに、イエスに従ってきた人々がどのような社会階層の人たちであったかが明白に語られています。
イエスがこのような人々を受け入れ弟子とし、食事の席を共にされたことは、当時の宗教指導者たちにとって最大の驚きであり躓きであったと思います。
ファリサイ派の人々にとっては、徴税人を弟子にするとか、罪人と食事を共にするというようなことは、もはや釈明をするまでもなく明白に彼らの求める律法に違反していたので、ただ非難と敵意に値するものであったのでしょう。
イエスが救いをもたらされるのは、正しい人とか病人とかの区別はなく、本当に全ての人なのです。
わたしたち全ての人間は罪人です。わたしたち全ての人間を罪の中から救い出すためにイエスはこの世にこられたのです。
この言葉こそ、救いを受ける者の資格を問わないで無条件に救いと命を与えてくださる父なる神の恩恵を示す言葉だと思います。
なんら見返りをもとめない、条件を求めない絶対無条件の神による恩恵の支配が始まったことをイエスは伝えにこの世に来られたのです。
それは、旧約の時代の律法による支配(人間の努力とか知恵による支配)とはまったく異なる支配体制で、神との関わりの中でなされる神による支配です。
●13節.『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
この節は、次のマタイとルカの福音書の聖句を参考にすればわかりやすいかと思います。
マタイの福音書第12章7節「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」
ルカの福音書第6章36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
人を蔑んで、人を犠牲にして自分を高める生き方ではなく、父なる神が憐れみ深いようにあなたがたも人に対し憐れみ深い者となりなさい、と言われているのです。
イエスは彼らに「神の国の祝宴に招かれているのは、あなたがた義人ではなく、このような罪びとたちである」と言われているのです。
ファリサイ派の人々は、神の国に招かれる人は旧約聖書の律法を守り行っている人のことと思っていました。
そう言う人を義人と称して、自分たちはその義人だと思っていました。
だから、律法の知識がなく、律法を守ることができないような生活をしている人々を罪人(神から離反していること=原罪)と言っているのですが、イエスはそれと全く逆のことを宣言しておられるのです。
そうすると、神の国に入るために律法を守ることは無意味になります。
そのことは神の定められた掟である律法に対する冒涜、神に対する反逆になります。だから、ファリサイ派の律法学者たちは激昂したのです。
本当は、ファリサイ派の人々も徴税人も、神から見れば罪人なのです。
違うところは、徴税人たちは自分が罪人だと自覚していますが、ファリサイ人たちは自分が罪人だと自覚していないということです。
両者とも罪人であるが、前者は自分に罪があることを認め悔い改めているが、後者は自分がそれほど悪くないと思って、悔い改める必要性を感じていないところに問題があるのでしょう。
罪が許されるのは、人の努力や能力ではなく、ひとえに神の憐みゆえなのですからそこを忘れないようにしたいものです。
「ひとえに神の憐れみゆえ」と言いますのは、人間は被造物であり、目的があって造られたのです。
罪とは神から離反して、造られたご計画に沿わないで勝手に生きている状態を言います。
だからそういう状態(罪なる状態)で生きていることを許し、元の正常な神との関係に戻せるのは、神だけなのです。
罪びとが罪びとを許せないのは道理です。
最後に、「正しい人」とはどのような人のことを言うのでしょうか。
正しい人とは律法学者らユダヤ教の指導者たちのことを皮肉って言っておられると言う考え方と、ユダヤ社会で罪人とされた人以外の人のことを言っているとの考え方があります。
わたしは、ユダヤ教の指導者たちのことを言っていると思うのですが、いかがでしょうか。
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