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2017年12月23日 (土)

天の国のたとえ(マタイ13章)

聖書では、天の国を高価な真珠を喩にもちいて教えています。

もちろん、天の国とは天国のことですが、わたしは次ぎの聖句の意味が長い間理解できませんでした。

ようやくこうではないかと思うことが与えられましたので書いてみます。

マタイによる福音書13章44節から46節です。

●44節.「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」 

●45節.「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

第二コリントの信徒への手紙4章

●7節.「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

コロサイの信徒への手紙2章

●3節.「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

わたしは、天の国とはどのようなところだろう、とよく考えます。

これらの聖句を読んでいると、イエスは天の国がどれほど素晴らしい所かを伝えようとされていることがよくわかります。

この箇所を読むと、イエスが、天の国をどうすればみんなに伝えることができるのだろうか、こんなすばらしい世界がどうしてなかなかわかってもらえないのか、と、もどかしい思いをされているのがよく分かります。

霊的な世界はたとえでしか語れません。だから、イエスも「宝と真珠」のたとえで天国のことを語られたのでしょう。
それでは、詳しく読んでみたいと思います。

まず、この聖句の畑というのは、わたし達の心のことでしょう。

そこには高価な宝物が埋もれていると書いてあります。

そうです、わたしたち自身の心の中にその宝(天の国)があると言っておられるのです。

コリントの信徒への手紙に、その「宝を土の器に納めています」と書いてありますが、この土の器というのは、わたしたちの肉体のことだと思います。

なぜなら人間は創世記によりますと、土の塵で造られたとあるからです。

肉体は土の器(うつわ)」ですから、その中には何が入っているのでしょうか。おそらくわたしたちの存在そのものが入っている、ということでしょう。

土の器であるわたしたちの肉体は、日々古くなってやがて死にます。

そして、土の器の中のわたしたちの心の中は、自我という欲望が渦巻いています。

そのためにわたしたちの心は醜く歪んだものになっています。

でも、そこには宝が隠されていると聖書は言うのです。

「宝を見つけた人は」ということは、自分自身の心の中にその宝が存在することを知った人のことで、その人は自分の今までの人生のすべてを売り払ってでも、その宝の入った畑を買い取りたくなると書いてあります。

つまり自分のものにしたくなるのです。

わたしたちに内包している宝はそれほど高価なものだといっています。

そうであれば、気がつかないで一生を終えれば宝の持ち腐れということになります。

それでは、どうすれば見つけられるのでしょうか。

それに、どうすればその宝が何にも代えがたいほど大切なものであるかがわかるのでしょうか。

宝は発見するものですから、自分の意志で捜さなければなりません。

この聖句は、イエスの天の国のたとえですから、この宝というのは、天国のことになります。

そうすると、天国はわたしたちの心の中にあるということになります。

その天国を見つければ、天国へ通じる道が見つかりますから、その時には既にその人には天国が到来していると言えるのでしょう。

聖書によれば、わたしたちはもともと霊的な存在です。

だから霊の世界のことを感知する能力ももともと備わっているはずです。

役目は聖霊の働きによるのだと思います。

具体的に書けば、聖霊の働きを受け入れるには、イエスのことばを信じ、受け入れ心に留めることが必要です。

そうすれば、わたしたちの心の中で渦巻く、罪の元であり、聖霊の内住の邪魔をしている自我という欲望がぬぐわれて、清められて、聖霊がその人の内に入り、天国の歓びが、天国への道が心の中に到来するということだと思います。

この現世において体験できる天国の歓びとは、わたしが思うに、神様は命です、光です、命は躍動で輝きですから生かされていることの歓びにつながります。

そして、それは生きとし生けるものすべての一体感につながると思うのです。

その天国は、見つけたらこの世で得た財産すべてを売り払って買い取っても価値がるものだということです。

逆に考えると、イエスの死と十字架の出来事によって、わたしたちの中にあるかけがえのない大事な真珠が、そのままでは、気がつかないまま無駄になってしまうので、ご自分のいっさいを捨てて、十字架の死によって、自分の血によってその真珠を買い取ってくださった。つまり贖ってくださったということになります。

だから、これがあなたの大事な真珠なのだから、早くその大切さに気がついて、しっかりと守って、取られないようにしなさいよ、こう言っておられるように思います。

45節に「高価な真珠を一つ見つける」とありますが、その意味は、高価な真珠の中の一つですから、それはほかのどんな高価な物とも比べようがないと言う意味でしょう。

ここでもう一つ問われているのは、わたしたちが、その宝物があることを発見したら、黙って埋もれたままにしておくのか、それとも、思い切って持ち物全部を売り払ってでも、その畑を買うかだと思います。

ということは、高価な真珠、天国を発見したら、すべてを捨ててわたしについてきなさいといわれているのだと思います。

コロサイの信徒への手紙第2章3節には、宝には、天国の喜びだけでなく、人生を生きるための実際的な知恵と知識もあると書いてあります。

現実の人生を渡るときに必要な知恵や知識も得られるのですね。それは助かります。

こういうイエスに出会ったら、もうなんにも言わないで、黙って己を明け渡す。ただあるがままの自分をそのままイエスに委ねる。

委ねたら、聖霊に導かれるままに、為すべきことを行っていく、ただそれだけだということでしょう。

ところが、現実を生きるわたしたちには、信頼して委ねると簡単に言いますが、これがまた難しい、そのように思いませんか。

聖書には良いことが書いてあるのは分かるが、その言葉を信頼して委ねろと言われてもね。

イエスは目の前におられないし、文字だけですよ。

そう、プライドの高く、目に見えるものしか信じないように教育されているわたしたちには難しい。

特に財産や権力や知識を持っている人は、まずそれに頼ろうとするのが人情ですからなおさら難しい。

でも、聖書には、そのようなことは心配しなくてもよいとあります。

ただ、イエスの言葉を信じようと決心したら、あとは聖霊がその人に働かれて天国に導いて下さると書いてあるのです。

他力本願です。自分は何もしなくてもよいのです。

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