実によって木を知る(マタイ7章)
今回はマタイの福音書第7章15~20節を読みます。
共観福音書の並行個所はルカの福音書第6章43~44節です。
マタイの福音書第7章
●15節.「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」。
ここでは、偽預言者のことを書いています。わざわざ偽預言者のことを書くということは、当時のイスラエルは、つまり、イエスの福音宣教の最初期には預言者の活動が盛んであったということです。
偽預言者が多くあらわれるということは、背景としてイスラエルはローマ支配下で民の生活は抑圧と困窮のために疲弊していたのでしょう。
民衆の中では、イスラエルを救うメシア(救い主)待望が強く望まれていたのでしょう。
ここで預言者について定義をしてみたいと思います。新約聖書で預言者というのは、主の霊の働きによって、主の言葉を語り、それを霊の力による業(奇跡的な癒やしや悪霊払いなど)で裏付けるカリスマ的伝道者のこととされています。
したがって、その預言はかならずしも将来を語る言葉とは限らず、広く福音(よき知らせ)を伝え、知恵を教える言葉であったということです。
このように一言で預言といっても、その範囲は非常に幅が広く、イエスを信じる民の中にも使徒とか教師、奇跡を行うものなどとともに賜物を持つものとして預言者も上げられています。
コリントの信徒への手紙第一 12章28節にあるとおりです。
もちろん、預言者には定住しないで巡回する預言者(巡回預言者)もいて、その人たちは、新しい信仰を宣べ伝え、信じる者たちの群を指導していたようです。
ルカの福音書第10章2節から12節の「七十二人を派遣する」のその派遣された人もそのような人であったのではということです。
「預言者」については偽預言者もいたようです。マタイは「偽預言者を警戒しなさい」と呼びかけています。
霊感を受けて主の言葉を語ると主張する「預言者」が、みな本物の預言者であるとは限らないというのです。
預言者の中には一部マタイの目から見て、信仰を間違った方向に導きかねないと思われる危険な傾向があったようです。
マタイは偽預言者をマタイの福音書第7章15節で「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」と表現しています。
この羊の皮を身にまとってというのは、イエスの弟子の群に属する者であるように見せかけている人で、その者の実質は羊(イエスの弟子)を食い荒らす貪欲な狼であるというのです。
イエスの弟子たちを、羊にたとえているのです。
偽預言者は狼のように貪欲というのは、イエスの弟子を自分の弟子にして、自分の野望を果たすための道具とし、共同体のまとまりを破壊し、羊を滅びへと導いているということでしょう。
ということは、偽預言者に利用されるほどイエスの人気がすさまじかったと言うことでしょう。
●16節.あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
●17節.すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
●18節.良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が善い実を結ぶこともできない。
●19節.良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
●20節.このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイは偽預言者を見分ける規準として木とその実のたとえを用いています。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」と語り、「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」と実例を挙げて問いかけます。
17節から18節の、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」は、物事の決りを書いているのでしょう。
そして、19節で警告として、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」となります。
もちろん、この言葉は終わりの日の裁きの言葉で、偽預言者は、終わりの日には裁かれ滅ぶとする警告だと思います。
さて、ここでルカの福音書の並行個所を見てみましょう。
ルカに福音書第6章
●43節.「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
●44節.木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
●45節.良い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
ルカの福音書は、この木と実の関係を(偽預言者とは関係なく)「人の口は、心からあふれ出ることを語る」という人間の心と言葉の結びつきの比喩として用いています。
マタイはこの比喩で、預言者が本物であるか偽物であるかを見分ける規準として、その教えではなく、その行動や日常の生活が正しくなされているかどうかを見て判断すると言っているのだと思います。
言えることは、現在であれば聖書に照らしてその教えが正しいかどうかを見れば良いのですが、この時代はまだキリスト教と言いましても、正統な教理(信条)とか聖書の正典が確立していない時代でしたから、言葉とか日常の行いを見る以外に規準がなかったから行動を見て判断するということだと思うのです。
それでは、今は聖書があるから行いを見る必要がないのかといえばそうではないと思います。
ここの示されているように、木と実の関係は理にかなっていると思うのです。
イエスの教えを信じていれば当然行いはそのように改まりますし、信じていると言いながら教えとは全く違った言動をすれば信じていないのと同じだと思います。
たしかに、良い実を結ぶ木が良い木であり、悪い実を結ぶ木は悪い木です。
ただし、聖書を基準として「良い実」または「悪い実」を判断するにしても、いろいろと解釈があり、また、誤用されることもあるので注意が必要です。
人間の世界は何事も相対的ですから、絶対なものを求めるのは困難です。
良い実、悪い実を道徳的な面で判断するにしても、その道徳自体が時代によって、国によって、民族によって違うのですから、基準としてはいかがでしょうか。
ここでマタイとパウロの「実」についての見方を見てみますと、マタイは、良い実か悪い実かの基準は、「山上の説教」で説かれたイエスの言葉を実行する生活を「良い実」としているのだと思います。
マタイは「実で見分けよ」という原則をかかげるだけで、「実」の内容については何も述べていません。
それに対してパウロは、「実」について具体的に内容を羅列しています。
すなわち、「御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ書第5章22節から23節)。
当然これは「良い実」です。それに対する「悪い実」は、「肉の働き」であり、それも具体的にその内容が上げられています。
ガラテヤの信徒への手紙 / 5章19節から21節「肉の業は明らかです。
それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」です。
マタイは15節で「偽預言者を警戒しなさい・・」とあるように偽預言者を見分けるのに良い実と悪い実の対比を語っていますが、パウロの言う「御霊の実」と「肉の働き」は、人間の生まれながらの本性(肉)と対比させて、神の霊、聖霊の導きがもたらす新しい生き方の在り方を述べているものです。
一緒にできないところもあるように思います。
結論として言えることは、人は自分の知恵とか努力で神の道を歩むことは不可能だと聖書は教えているということです。
だから、イエスの御霊に導かれて歩むことが求められるのです。
その道は、イエスの言葉を信じて、神の霊、聖霊の導きに自己を委ねなさい。そうすれば、聖霊があなたの思いを正し、行いを正して言行一致に導いてくださる、ということでしょう。
言葉も行いも御霊に導かれてなされていれば、良心の呵責はないということです。
人は「自分の言葉に責任を問われる」ということです。神は言行一致を求めておられると思います。逆に言行不一致は偽善者の道だと思います。
見かけで人はわからないということもあります。
それでは、良い実と悪い実を具体的にどうして見分ければよいのでしょうか。
そこで思い出されるのは、マタイの福音書第13章24節から36節のイエスの「毒麦のたとえ話」です。
このたとえ話では、わたしたちには教会に集っている人たちでも玉石混合で良い実と悪い実を見分けるのはむつかしい、いや、困難だと語っています。
だから、終わりの日の裁きの時に神が直接裁かれると教えています。
また、聖霊の導きによって歩むと書きましたが、それでは、その人に働く聖霊が、イエスの御霊から出たものか、それとも「違う霊」から出たものか、さらに困ったことに「悪い霊」から出たものか、これはどうして見分けるのでしょうか。
それに、自分の内に働くイエスの御霊、聖霊の導きと自分自身の思いや欲望とをどのようにして見分けることができるのでしょうか。
これについて、第一ヨハネの手紙第2章27節は次のように言っています。
「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」
このように、御子イエス(聖霊)が共におられれば、求める者たちを、必ず正しい道へと導いてくださると聖書にあります。
マタイの木の実のたとえも、聖霊が働くから良い実が成るということではなくて、良い実が成るから、そこに働く聖霊は良い霊だと教えていますから、自分の内に働く霊が本当にイエスから出たものかどうかを知るためには、その霊の結ぶ実を見れば分かるということなのです。
そうすると、先に書きましたガラテヤ書第5章 22節に羅列してある霊の結ぶ実に戻ってしまいます。
結論として、イエスの言葉を信じ、心に留めて、聖霊の導きを信じて、良い実を結べるように祈り求めていくしかないということでしょうか。
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